イエスの言行研究会 マタイ第5章の5

今日はマタイの5章33節~37節です。

誓いについてのイエスの言葉です。

旧約聖書時代のユダヤ社会では、「誓いを立てたら、それを主に果たせ」という戒めがありました。

士師時代の、士師の一人であったエフタは、異民族との戦いに勝利させて下さいと、イスラエルの信奉する神に願いました。

そして、もし願いが叶えられたら、帰ってきた時に、最初に家から迎えに出てきた者を燔祭としてヤーウェに捧げると誓いました。

その結果、エフタは戦争に勝利し、家に帰って来ましたが、その時エフタを迎えに家から出てきたのは、なんと彼のただ一人の娘でした。

ヤーウェに誓ったことは、必ず果たさなければなりません。娘はその事を受け入れました。
当時としては、悲惨な出来事であっても実行しなければならないことでした。

その結果、一人娘は、2ヶ月間処女のままで死ななければならないことを友人と共に泣き悲しんで、その後火炙りにされて、戦争の勝利の犠牲としてヤーウェの神に捧げられました。

戦争の勝利と引き換えに、人の命を捧げるというのは、現代人にはとても理解できないことですが、つい73年前の太平洋戦争でも、特攻隊という人間の命を犠牲にしても、戦いに勝とうとする精神は生きていました。

日照り続きで雨が降らないと、農作物が全滅してしまうので、それを神の怒りととらえた昔の人達は、人柱を立てて神の怒りを鎮めようとしたりしていた、野蛮な時代もあったのです。

何千年も前の、イスラエルと同じです。

この事が、実際にあった事実なら、イスラエルの神とは、何と残酷な神だろうと思うのですが、よく考えてみれば、イスラエルの戒めは、誓ったことは果たせということであり、どのような誓いを立てるかは、人間に任されているのであって、神が残酷な行為を認めたということでは決してないと思います。

戦争の勝利に取り憑かれたために、そのような誓いを立てた、人間に問題があるのです。

これが事実でも、作り話でも、聖書に記述されている以上、悲しい話ではあっても、これは神の前に正しい行為として、ユダヤ社会の中で受け入れられてきたのです。

特攻隊が、戦時の日本で受け入れられたように。

そのような日本に対して、原爆が2発、米軍によって投下されました。

それが、どれだけの被害をもたらし、放射能の後遺症のために、生き残った人の多くが、癌を発症して死んでいったかことか。

それに比べれれば、、このまま戦争を続ければ、日本人が全滅してしまうと思い、そのことを防ぐために、戦争の早期終結を図るための手段であったというのが米国の言い分だったのですが、戦争という状況を利用しての、原子爆弾の破壊力の人体実験ではなかったかという疑いは、拭いきれないと思います。

米国内にも、原爆投下には反対する意見があったのですから。

しかし、原爆投下は実行に移されました。

日本人がどうとか、米国人がどうとかいう国対国という構図で考えるのではなく、人間の行動としてどうなのかという、地球人としての認識の範疇の中で、もはやグロバールな視点で考える時代に入ってきているのではないでしょうか。

確かに日本には、恥の文化を重んじる風習があり、捕虜になって生き恥を晒すくらいなら、自害せよという、武士の時代の精神がその時代にも生きていました。

「咲いた花なら
散るのは覚悟、
見事散りましょ
国のため」

戦時の「同期の桜」という唄ですが、その作られた歌詞に、特攻隊のことを重ね合わせると、耐えられない気持ちになります。決して散る際にも美しい桜に例えるべきことではないと思います。

桜が散るのは自然現象ですが、特攻隊は自らの意思とは別に、当時の日本軍司令部によって自爆を強要された行為です。

つまり、現代のISと同じ立場です。死んだら天国へ行けるという甘言を使って、誤った思想を若者に吹き込んでいるのです。

神とされた天皇のために命をかけた特攻隊の生き残った人々は、戦後に天皇が、私は神ではなく、人間であると宣言をしたという事実を知って、墓の下で眠っている仲間にどんな思いを持ったのでしょうか。それは国の政治家の墓参りの参拝ぐらいで許されることなのでしょうか。

一方で、戦功のあった英霊を称えるという主旨で、戦士者が祀られている靖国神社の問題は複雑で、一言で靖国参拝を断罪することはできませんが、騙されて死んでいった特攻隊を初めとする日本人の魂を慰めるために、私達がするべきことの中で一番大切なことは、平和を実現する努力を継続していくことしかないと思います。

エスによって顕された神の意思は、自ら平和を壊すことはしませんが、人間が平和を壊す行為を自らは止めることをしないことを前提に、人間に自由意思を与えたのですから、キリスト教徒は、人間の罪に対する神の罰という言い方をしますが、天に向かって吐いた唾が自分に降りかかってくるというのが、本当のところでしょう。

神が罰を与えるのではなく、人間自らの罪のために自滅するのです。

だから、それに抗う人間の平和に向けた努力が大切なのです。神はそういう人には力を与えます。

しかし、悪魔も悪人に力を与えますから、最終的には力の勝負になります。

正義が力を持たなければなりません。

しかし、正義の名の元に不当な力による支配が行われているのが現実です。

正義は力を持たなければなりませんが、力そのものが正義ではありません。

イエスの言行研究会 マタイ第5章の4

マタイ5章の21節~32節

十戒の「殺してはならない」という戒律より、さらに厳しい倫理基準がここでもイエスによって語られています。

「人に対して腹を立てて、能なしとか、ばか者と言う者は、最高議会に引き渡されたり、地獄の燃える火の中に投げ込まれる。」と、会社や家庭でよく言われている言葉があげられています。

日常的に言われている、この言葉は確かによくありませんが、こんなことを言ったら、即裁判にかけられたり、地獄へ投げ入れられたりしたら、どれだけ多くの人が犯罪人として拘束されなければならないでしょう。

現代でも、パワハラ問題が表沙汰にされて、話題に上り、ニュースにも取り上げられるようになってきました。

一寸前までは、そんなこといちいち犯罪扱いしていたら、世の中犯罪人だらけになっていたでしょう。

それまでは、見過ごしにされていたことが、ハラスメントとして、犯罪として扱われるようになり、社会もやっとイエスさまの倫理基準に追いついてきたということでしょうか。

また、人に恨まれることの怖さにも話が及んでいます。

人に恨まれることの怖さは、皆さんもよく知っているでしょう。「触らぬ神に祟りなし」
というのは、字の間違いですが、人の不興を買うような余計なことを言うのは、自分の首を絞める結果を招きます。

だから、失敗したら平謝りするしかありません。相手が原因を作っているとしても、相手が悪い場合はまともな話は通じません。

その場合は、信頼できる第三者を通じて、注意を促してもらう方が賢明です。

クリスチャンといえども、この世に生きている存在に変わりはありません。まわりはノンクリスチャンだらけです。

意地悪な人も、頑固な人も、差別や偏見を持っている人もいる中で、私達は生きているのです。もっとやっかいなことには、クリスチャンも、イエスによって本当に変えられていない人は、聖書の基準で人を裁いたり、自分が神の代理人でもあるかのように、横暴に振る舞う人もいるのです。

「悪い者に逆らってはいけません。」というイエスの言葉は、世の中を生きていくためには役にたちます。

浅はかな正義感からの悪口は、何の役にも立たず、ただ言った人と言われた人を賎しめるだけです。

また、イエスは旧約時代にイスラエルで出来上がった戒律を次々に塗り替える言葉を発していきます。

「心に情欲を抱いたら、既に姦淫を犯したと同じことである。」

「右の目がつまづかせるなら、えぐって捨てなさい。」

「右の手がつまずきのもとなら、切って捨てなさい。」

「不貞以外の理由で妻を離縁するものは、妻に不倫の罪を犯させる。その妻と結婚する男も不倫を犯すことになる。」

とてもじゃないが、まともな神経では従えないことばかりです。

また、もしこの言葉をまともに信じたら、身体中のあらゆる器官を失わなければならないでしょう。

この場合、問題にされるべきは体の器官ではなく心なのです。

米国では、再犯の多い性犯罪者に対して、去勢手術を施すそうですが、それを人間がすることに反対する人々もいるそうです。

更正の見込みがなければ、新たな性犯罪の犠牲者を増やさないためには、犯罪者の権利もある程度制限されるのは仕方がないとは思います。

自分が性犯罪の当人なら、反対するでしょうが、性犯罪を繰り返す犯人の去勢による性犯罪防止の方が、当人の性能力を残しておくよりも優先されるべきことだと思います。外に方法がないのであれば。

イエスの言行研究会 マタイ第5章の3

戒め

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように教えたりする者は、天の御国で、もっとも小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教えるものは、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

これは、法律にがんじがらめになって、人を裁けと言っている言葉ではありません。

神の与えた法律は、全て正しいし、守らなければならないが、法律が愛より上に立ってはならないという前提があっての話です。

エス自らが、安息日の原則を愛の行為のゆえに破りました。

また、正しいものが、冤罪によって殺されるということを受け入れたこと(十字架刑)も、ユダヤ教の法律ではありませんし、あり得ないことでした。

正しい者(ユダヤ人にとっては法律を守っているもの)が罰を受けるのではなく、法律を犯した者が罰を受けるのだからです。

だからこそ、法律主義のパリサイ人は安息日の掟を破ったイエスを、偽のキリストと決めつけたのです。

十戒には、あなたの神を愛せよ、あなたの隣人も神と同じように愛せよという、イエスの言葉はありません。

しかし、この2つを完全に守るなら、決してユダヤの法律にも違反することはないのです。

表面的には、法律に違反しているように見える行為でも、その動機を探れば、決して法律通りの行為でなくても、許されるというのがイエスの立ち位置です。

いや、むしろ、法律を破っても、そうせざるを得ない、愛による動機の行為は、法律に優先するということです。

そうでなければ、イエスの十字架は神が許すはずがないのです。

安息日は、人のために創られたのですが、一度できた法律にこだわるあまり、何のために安息日が創られたのかを忘れてしまい、法律に人を縛りつけるようになるのです。

ユダヤ教徒ばかりか、イエスにより、罪から解放され、自由を得たはずのクリスチャンまでもが、ユダヤ教徒のような法律第一主義のような発言をしていることは、嘆かわしいことであり、イエスに言わせれば、

「私は何のためにあなた方のために犠牲になったのか。旧約時代のユダヤ人のような法律主義に戻らせるためではないのに。」と、嘆いていることでしょう。

聖書はイエスキ・リストを証ししている書物であり、イエスの愛の言葉は、旧新約聖書全体を覆っているのであり、聖書全体の言葉は、ユダヤ教徒であった人間パウロの言葉ではなく、イエス・キリストの言行によって、解釈し直さなれなければならないのです。

聖書の頂点は、イエス・キリストであり、それは、どんなことによっても変えることのできない真実です。

それをもってすれば、現代のキリスト教界で意見が二分している、同性愛者にどう対応するべきかは、自ずと解答が出るはずです。

同性愛が罪かどうかというなかなか結論の出ない議論をするより、イエスが同性愛者に対して、何と発言するかということの方が大切な問題です。

聖書の中にも、足の不自由な人に対して、パリサイ人が、「この人が足が悪いのは、この人の罪ですか、それともこの人の先祖の罪ですか。」とイエスに訊ねた時の、イエスの答えは、「どちらでもない。この人に神の愛が現れるためである。」と言った。そして、すぐに神の愛の力を示すために、即座にその人の悪い足を癒した。

それでは、この話から同性愛者に対して非難する人に、イエスは何というだろうか。

一つは、「あなた方の中の罪のない人が、彼らを非難するがいい。」と言うであろうこと。

目くそ鼻くそを笑うという諺は、この場合、真実である。

もう一つは、「この人の罪でも、先祖の罪でもない。」と言い、「異性愛者になりたいか。」と訊き、「なりたい」という人は、すぐにも異性愛者に変えてしまうだろう。

しかし、彼が、「私にはただ一人、心の底から愛して合っている同性のパートナーがいます。社会に受け入れられるからとか、子供ができないからという理由で、異性愛者になって、彼の愛を裏切ることはできません。さまざまな不利益を引き受けても、私は彼と離れたくありません。」と言ったら、イエスは何と答えるだろうか。

「神は人間を男と女に創った。あなた方の愛は間違っている。すぐにも別れなさい。そして二度と逢ってはいけない。また、よりを戻して罪を犯すといけないから。」と言うのだろうか。

同性愛者を、その事自体が罪に当たると思っている人、あるいは、あなたが同性愛者であることで、人間的には差別はしないが、あなた達の性行為は罪に当たるから禁じるという、性が人間という存在そのものと切り離せないものであるという事実を知りながら、その人の人権を無視して、体と心を切り刻むようなことを平気で言う人がいる。

そして、同性愛者には性行為を禁じ、自分達だけは、神によって許されたとして、結婚生活の中で思う存分、性生活を楽しんでいるのである中での発言である。

他人の痛みは100年でも平気でいられるのが、愛のない人が相手に取る態度です。

聖書に記述されている、男色の話は、社会の中での性の乱れという文脈の中での記述であり、現代的な意味での同性愛の概念とは違います。

性の乱れという意味では、異性愛者同士でも性の乱れは多数派の中で常に行われています。不倫も異性愛者の中でも、いつもあることです。

キリスト教では、婚外性交渉を罪として禁じています。

従って、性交渉は結婚生活の中でのみ認められています。離婚については、カトリックプロテスタントでは、意見が異なりますが、婚外性交渉を禁止しているのは、同じです。

「性の乱れは、罪である。」

それについては異論はありません。

現代の同性愛者の間でも、性の乱れはあります。

それについては、異性愛者と同じく罪とされても当然のこととして受け入れられなければならないでしょう。

歌舞伎町も、新宿二丁目も同罪なのです。

性の乱れに、異性愛者と同性愛者との間に違いはありません。

しかし、同性結婚が社会に認められていない時代には、同性愛者はパートナーを探して見つけても、せいぜい同棲までで、社会的な身分の保障は何もなかったのです。

何よりも、社会の目と宗教的な禁忌事項として、キリスト教社会の中でさえ、性規範を乱す犯罪として法制化され、死刑まで行われていた時代は、中世の魔女狩りのように、ほんの100年くらい前の時代まで行われていたのです。

キリスト教で、異性愛者の婚外性交渉を禁止しているのは、不倫と性規範の乱れを防ぐためだと思いますが、それと同じ理由で、同性愛者の不倫と性規範の乱れとしての、性交渉の相手を取っ代えひっ代えするフリーセックスを禁止するのは、相手の人格を毀損する行為として、また性病の蔓延を防止するために意味のあることであると思います。

同性愛者の中にも、女性との性交渉が可能な人もいて、結婚して社会的な地位を安定させてから、同性の恋人を作って秘密裏に不倫をするというのは、特に結婚しないことが社会人としての評価を落とすような時代には、この方法をとっていた人が比較的多かったのです。

しかし、異性との性交渉が、本人の生来の性指向のために不可能な人は、性交渉の相手として、同性愛者を探すほかには方法がなかったのです。

キリスト教の、同性愛者に対する性交渉を禁止する理由として上げられているいくつかの
聖書の中の記述があります。

それを一つずつ検証してみることにします。

相手がキリスト教スペシャリストなので、他の話に発展する可能性があるので、できるだけ焦点をこの問題に絞って質問してみたいと思います。

1 神は人を男女に創られて、二人は一体になり、子供を作り、それが人の繁栄に繋がる神からの祝福である。従って、それに反する同性間での性交渉は神の作った法則に反逆する行為であり、許せない罪である。

【1に対する検証】

〈検証者〉

神は確かに、人を男と女に創ったかもしれないが、人に限らず、地球上の生命体には全てバリエーションが存在し、それは普遍的な事実である。この事に対して、キリスト教指導者達は何と答えるのだろうか。

「神さまが間違いをおかすことは絶対にない」というのが、彼らの大前提なので、「それは神さまの間違いです」とは、絶対に言わない。

では、全てが神さまの創造なら、出てきたものは皆神さまの作品なのだから、全て正しいものではないのですか?

キリスト教指導者の答え(以下指導者A、B と省略します。)〉

神さまが創った時には、正しかったのだが、人間には自由意思が与えられているので、人間自身が、自分で間違った道へ迷い込んだのです。

〈検証者〉

では、同性愛者は、自分の意思で同性相手と性交渉をしているというわけですか。

〈指導者A 〉

当然そうでしょう。神さまがそういう道に人を誘うことは、絶対にありません。

〈検証者〉

なぜ、同性間で性交渉をしたら罪になるのでしょうか。

〈指導者A 〉

神の意思に反する行為だからです。

〈検証者〉

神の意思とはどういうことですか

〈指導者A 〉

男女が一つになって、健全な家庭を作り、子孫を残すことです。その上で家族全員が神を信じて、神の意思に従うことです。

〈検証者〉

では、なぜ異性がいるのに、敢えて同性と性交渉をするのでしょうか。

〈指導者A 〉

それは、人間には原罪があるからです。それが全ての罪の根です。そこから、色々な罪が発生してくるのです。

〈検証者〉

では、人間はもともとパンドラの箱のようなものだと考えてもいいのでしょうか。

〈指導者A 〉

人間に原罪がある以上、程度の差はあっても、全ての人がパンドラの箱を持っているとも言えます。パンドラの箱は、ギリシャ神話の話ですから、例えとしていえばということですが。

〈検証者〉

どうして、人間には原罪があるのでしょうか。

〈指導者A 〉

最初に人間が創られた時には、無垢な状態で、原罪はありませんでした。しかし、神の命令に背いて、蛇(悪魔)の誘惑に騙されて、食べてはならないとされていた善悪の木の実を食べたので、その時点で人間は神に反逆する極めて罪深い存在となり、原罪を背負ったのです。

〈検証者〉

なぜ、人間は悪魔に騙されたのでしょうか。

〈指導者A 〉

サタンの方が、その時点ではるかに人間よりも知恵があったからでしょう。悪知恵ですが。その時には、人間の方が無垢ではあっても、無知だったので騙されたのでしょう。

〈検証者〉

騙されたのは、最初に創られた人間であるアダムとエバですか?

〈指導者A 〉

聖書では、そう教えているというのが、聖書を、唯一の誤りなき神の言葉と信じている福音派の私達の立場です。

〈検証者〉

アダムという名前の原意は、アダマという普通名詞で、人間という意味だそうですが、聖書の天地創造の中で、最初はアダムという名前は使われず、人、あるいは男、女という言葉が使われていますが、3章21節になって、初めて固有名詞であるアダムという名前が出てきます。

物語としては、その前に出てくる「男」とアダムは同じ人であるように記述されているのですが、この「男」という普通名詞で書かれている人物と、固有名詞で書かれているアダムは同人物と考えていいのしょうか。

旧約聖書には、このアダムから、人類を始めとして、イエス・キリストまでのイスラエルの歴史が纒綿と綴られているのですが。

エバについては、「人」がその妻に名前をつけたと書かれています。

〈指導者B 〉

私達のグループは、聖書の中に、アダムとエバという、固有名詞で存在していたとされる特定の人物の他に、別の人類が既に存在していたと考えています。ですから、アダムとエバが実在していた人物だとしても、たかだか今から6000年前のことですから、現代考古学の成果から考えても、人類は、その前から地球上のあちらこちらに居住していたと考えています。

〈検証者〉

とすると、人間が原罪を持っているという起源については、違う考えを持っているということですか。

〈指導者B 〉

そうです。男と女が善悪の木の実を食べて原罪を持つようになったというのは、一種の寓話だと思っています。

人間も動物の一種である限り、本能を持っているわけで、自己保存本能も持っているわけですから、獲物を巡って争い事もあったでしょうし、善と悪と言っても相対的なもので、絶対的な善も、絶対的な悪も人間には当てはまらないと思います。そのような太古の時代から、人間は善とか悪とかの認識なしに、善悪とされる行為を行って来たのでしょう。

それが、文字を使うようになり、法律として明文化されたのだと思っています。

事実、旧約聖書が書かれたのは、アダムの時代よりも何千年も後のことですから、旧約聖書の記録者は、現実に自分の目で見たことを書いているわけではないのです。

〈検証者〉

では、人間の心が悪に傾くのは、聖書の記述のように、善悪の木の実を食べたからではないと考えているのですね。

〈指導者B 〉

そうです。人間の心は、もともと善にも悪にも傾くようにできており、どちらに傾くのかは、本人の生まれつきの素質と、周囲の状況により変わるものだと思います。

普段はいい人だったのに、自身の環境が激変したり、戦争に行ったりすると、別人のような行動を取ることは、ご存じの通りです。

〈検証者〉

とすると、やはり人間には善や正を志向する心と、悪や堕落に傾く心が同居しているということでしょうか。

〈指導者B 〉

そうですね。その仕組みについては、私の専門外ですが、仏教の教えの方がよくわかるかもしれません。その悪に傾く心の根を原罪という言葉で表すこともできるでしょうが、それは、アダムが善悪の木の実を食べた結果であるとは考えていません。

〈検証者〉

罪の起源については、AさんとBさんでは、同じキリスト教の指導者でも考え方が違うのですね。

〈指導者A 〉

私達福音派は、聖書の言葉を一字一句、誤りなき神の言葉として信じていますから。

〈指導者B 〉

私達は、自由主義神学者ですから、聖書の言葉を検証した上で、信じるべきものとそうでないものとを振り分けます。

〈検証者〉

では、お二人の現代の同性愛者に対する考えを聞かせて下さい。

〈指導者A 〉

私達福音派は、同性愛に関しては否定的です。同性愛の何を罪とするかは、私達の間でも色々な見解があり、同性愛の性的な指向を持っていること自体を罪とする人もいますし、その事自体は罪とは言えないが、同性に対してそのような欲望を持った時点で罪になるという考え方をする人もいます。

また、確かに異性愛者も異性に欲情した時点で罪を犯したとイエスが言っているので、そうかもしれないが、われわれ異性愛者がその度にそれに責め苦を感じるとしたら、とても耐えられない。

しかし、それを実行するなら、自由意思を使って行う行為であるから、責められるべきであるとする考え方の人もいます。

〈検証者〉

しかし、聖書には、姦淫を犯した女をイエスは赦していますが、同性愛者だけは責められなければならないのでしょうか。

〈指導者A 〉

確かに、イエスは姦淫の女を赦しましたが、姦淫はしてもいいとか、非難されない行為であるとは一言も言っていません。むしろ、
「これからは罪を犯さないように。」と戒めて、姦淫が罪であると、はっきりと言っています。

ただ、そのような人を標的にして、敵のように思って非難することは、クリスチャンとして取るべき態度ではないでしょう。むしろ、そのことから離れられるように、愛を持って手助けするべきであって、それでも自らその道に入っていこうとする人に対しては、神さまの判断に任せて、その人のために祈ること以外に、私達人間には出来ることはありません。

〈検証者〉

それでは、同性愛者同士が性交渉をすることが、罪に当たるかどうかという核心の部分について、直接伺います。

〈指導者A 〉

旧約にも、新約にも男同士で寝ることは罪だと書いてあるので、聖書の言葉が無効にならない限り、罪です。

〈指導者B 〉

私達のグループは、同性愛者同士の性交渉を、それだけで罪であるとは考えません。

それがどのようになされるかによって、罪に当たるかどうかが決まると考えます。

性的な快楽を求めて、複数多数の相手となりふり構わず、性交渉を繰り返すことは、倫理的にも、病気の蔓延を招くことからも罪であるのは、異性愛者の場合と同じです。

しかし、同性愛者同士の特定のパートナーとの性交渉は、同性結婚が許されていない国では、認められる行為だと思います。

結婚に準ずるパートナーシップについては、日本でも自治体単位で、既に条令(法律)や要項(規則)で認めているところもありますが、国としての対応は、なきに等しい状態なので、養子縁組制度を利用して、親子(実質は夫夫)として、法律の適用を受けられる立場にいる人達もいます。

ただ、社会に受け入れられるという目的で偽装結婚し、子供を作った後に、同性に性のはけ口を求めて不倫に行くのは、「家庭を壊さないようにして遊べばいいのさ。」と言っている異性愛者と大差ない行動で、決して奨励されるべきことではないと思います。

社会に対しては体面を保ち、しかし妻は裏切り、家庭を経済的、人間的には維持して入るものの、一方で不倫をしているわけですから、日本は不倫は刑事罰を受けませんから、当事者に認識の甘さがあります。

〈検証者〉

わかりました。キリスト教の中でも、大きく二つに考え方が分かれているのですね。

そうしているうちにも、社会は日々、個人の人権保護のために、同性愛者を、異性愛者と同じ立場で扱おうとする運動や法的整備が進んでいます。

今後のキリスト教界の動きに注目していきたいと思います。

閑話休題

さて、イエスが同性愛者に対して言う可能性がある、もう一つの言葉を、聖書に表されたイエスの言葉から推測してみよう。

その時、イエスはその男に言った。

「あなたが、それほどまでに彼を愛していることはわかった。しかし、あなたの、あるいはあなたの彼の、私(イエス)に対する愛は、お互いを愛する愛以上のものなのか。」

同性愛者の一人の男が応えて言った。

「私は、世界の中で一番彼を愛しています。彼も同じです。しかし、二人ともそれ越える愛であなたを愛しています。」

すると、その時イエスの前に悪魔が立って、イエスに化けて言った。

「あなた方二人が、お互いよりも私を愛すると言っているのは偽りである。私の方をより愛しているなら、二人は罪を捨てて、別れを選ぶはずだ。」

同性愛者の男

「あなたは、愛と憐れみの神さまと訊いております。私達が普通の男女と違って、異性を愛せず、愛し合っていても子供も作れない存在であることを憐れんでは下さらないのですか。」

エスに化けた悪魔

「罪を罪とも思わない者に、私が憐れみをかける必要はない。」

同性愛者の男

「あなたは、私達の罪のために、ご自分の命まで捧げた方と聴いております。」

エスに化けた悪魔

「それとこれとは別だ。」

その時、同性愛者の男が、悪魔の正体を見破って言った。

「お前はイエスさまではないな。イエスさまなら、そのようなことを言うはずがない。イエスの名によって命じる。さっさと消えろ!!」

すると、正体を見破られた悪魔は、即刻その場から消え去った。

そのあとに、本物のイエスさまが現れて言った。

「よく、あなたは私に化けた悪魔の言うことを見破ったものです。私が真実を告げましょう。あなた方は、二人の愛を全うしなさい。片方が異性愛者になって、もう一人を捨てることになることは、私は望まない。私は生け贄は好まないが、憐れみを好む神だからである。」

さらに、イエスは二人に訊ねた。

「二人とも異性愛者になるのはどうか。私には何でもできるのだ。そうすれば、お互いに執着はなくなり、新しい異性を見つけるチャンスがあるではないか。」

同性愛者の二人の男

「もし、二人とも異性愛者になってしまえば、私達はイエスさまに次ぐ大切なパートナーを失うことになります。
そんなことになるくらいなら、最愛の彼とこのまま暮らした方がよいのです。」

エス

「その愛は、性欲に縛られたものではないか。片方が性的不能になっても、その愛は変わらないのか。私には君たち二人の内の一人にそうすることもできるのだ。」

同性愛者の二人の男

「私達のどちらかが性的に不能になろうとも、私がパートナーを見捨てることは決してありません。」

エスは、二人の心の中の思いを知って言った。

「あぁ、あなた方の愛は真実です。あなた方二人を敢えて引き離すようなことは決してすまい。お互いを大切にして一生暮らしなさい。あなた方の全ての行為は、性行為も含めて、私は罪には定めない。」


私自身は同性愛者ではありませんが、友人にセクシャルマイノリティの人がいて、セクシャルマイノリティへの差別には、人間として反対です。以上が私の結論です。

ただし、セクシャルマイノリティの人にも、人に迷惑をかけて憚らない人がいます。

ただし、それはセクシャルマイノリティの性的な問題ではなく、その人の人間性の問題であって、それは異性愛者でも同じことであります。

そして、性そのもののことを問題にするよりも、その人の人間性に言及することの方がはるかに大切なことです。

イエスの言行研究会 マタイ第5章の2 主日

今日は、主日なので、聖餐をいただきます。

聖餐は、イエスの言葉から判断すると、キリスト教会の専有物にはあたりません。

エスを信じる人には、誰にでも与えられます。また、イエスを主と告白していなくとも、自ら拒否するのでなければ、主はすべての人のためにその体を捧げ、血を流されたのですから、ネットチャーチ【光】では、希望する方には、全て聖餐を行う、フリー聖餐を行っています。

残念ながら、イエスはすべての人が救われるとは言っていませんが、わたしを信じるものはすべて救われると言っています。

ただし、水のバプテスマを受けたから、救われるとは限りません。真の救いは、イエスさまから聖霊のバブテスマを受けて、新生することです。イエスさまが、バブテスマのヨハネから水のバブテスマを受けられたのは、新生のための聖霊のバブテスマの雛形であり、儀式として行われたのです。

従って、水のバブテスマを受けているかどうかということは、新生のために必ずしも必要であるということではありません。

もちろん行ってもかまいませんが、行わなければ救われないということはありません。イエスさまを信じて告白したことの一つの証明として教会が行う儀式であり、現代では、実質的には、先に教会員になっている人からの承認であり、まだバプテスマを受けていない人に対しては、その準備のためのアピール効果になる(敢えてそうしているとは言いませんが)と思っていいでしょう。

その教会の教会員になるための、通過儀式であり、必ずしもイエスさまのためにだけ行っているというわけではないようです。教会員が増えることは、その教会のためにもなることですから。

もちろん、教会ではそんなことを口に出しては言いませんが

エスさまが現れれば、バブテスマのヨハネは廃れなければならないことは、ヨハネ自身
が話していることです。

新生は、聖霊のバブテスマが鍵となります。

既成の教会で行われている洗礼式は、パフォーマンスとまでは言いませんが、象徴的であり、多分に儀式的な要素が大きいです。

来会者から教会員になるための、通過点にしているところが多いです。

教会員になれば、必然的に献金や奉仕の義務が生じてきます。

ネットチャーチのよいところとしては、街にある教会のように、牧師や教会堂という人的、物的な財産を持っていないので、牧師に支払う給料や、教会堂の修繕建築費や備品などに掛かる費用が発生しないので、見る人にそれらの負担を強いる必要がない所です。

既成の教会では、神学校を出た聖書のスペシャリストである、牧師に対して信徒は献金をして養う義務がありますし、教会堂や、教会敷地内の財産を持っているために、宗教法人法により、税金は免れますが、それらの財産の建築費や維持・修繕費用は自分達で捻出しなければなりません。そのほとんどは、その教会の信徒の献金でまかなわれているのです。

ある人は、バブテスマを受けて教会員になろうとした時に、牧師から、教会員になったら収入の十分の一を指定献金として毎月教会に納めなければならないと聴いて、それでは自分自身の生活が成り立たなくなると思い、バブテスマを受けることを断念したと言います。そして、教会員には、裕福な人以外なれないと思ったそうです。生活費がかつかつの人は、税金を納めた外に献金ですから、相当厳しい生活を強いられるはずです。

教会そのものは、宗教法人法により、税金はかかりませんが。不動産税、献金にも課税されないようです。私達信徒は献金しても、その分は税金の控除の対象にはなりません。

まるまる出し損です。出したことが別の形で返って来るのなら、決して損とは思わないで済むのでしょうが。感謝して献金しましょうと言われますが。、実質はほとんど義務ですね。

この場合は、事前に話されたので、まだ対処ができまししたが、教会によっては、バブテスマの終了後に初めてその話をされることも多く、それから教会員をやめますと言うのは、非常にまずい状況を招く(教会からの信用を失う)ので、バプテスマを受けたいと申し出る前に、教会員としての献金についてしっかり確認しておくことが必要です。

場合によっては、教会を替える必要があるでしょう。まだ教会員になる前であれば、別の教会に移るのは簡単です。

一度教会員になってから移籍するのは、転勤などのやむを得ない事情ならともかく、個人的な理由で移籍を希望しても、受け入れ先の教会が同じ教団だったりすると、信徒を獲った獲らないという、牧師同士のいさかいを嫌がって、移籍の受け入れを敬遠することもあります。

バプテスマを受けたいと告白する前は、来会者としてのお客様扱いですから、立場的には比較的気楽ですが、初めて行った日に、バプテスマまでの準備勉強会の工程表を渡して、そのクラスに入れてしまおうとする教会もありますから、注意が必要です。

そこまでしない教会の場合は、それほど責任を感じる場面はないと思いますが、教会員の人の色々な面を知るためには、できるだけ多くの集会に出てみると、一人一人の性格がよくわかります。

その時点で、この人とは絶対にそりが合わないと思う人がいたら、牧師はたとえその人が性格的に問題がある人だったとしても、信徒から給料をもらっている立場として、どうしても古くから教会に貢献してきた人をかばいますから、新教会員となるためには(なった後も当分の間は)、かなりの我慢が必要になります。

来会者の時には、教会員の人に気にくわない人がいても、その人に文句をつける立場にはありませんし、教会員になってからは、内部的にごたごたするのを避けるために、新人のうちは、少なくとも一年間は我慢をしなくてはいけませんよ。

うっかり、新人の身でその人の悪口でも言おうものなら、即刻直接本人に伝わってしまうことを、新人教会員のあなたはまだ知らないでしょうから。

どこにも移籍するのが難しい(精神的な理由も含めて)場合は、このようなネットチャーチを利用するのも、一つの方法です。

その場合は、そのネットチャーチの管理者の資質を見極めることが、非常に大切です。

このネットチャーチも、もし、あなたがおかしいと感じたなら、すぐに読むのをやめた方がいいでしょう。新しい考え方に接して混乱するよりは、今まで築いてきた体験の中に安住する方が、本人の精神的健康のためにはいいからです。

それを覚悟で、何が本当に真実なのか見極めたいという人は、読み続けてもいいでしょう。そういう人は、このネットチャーチ【光】に招かれている人です。

しかし、そういう人が、真にイエスさまに招かれている人なのかどうかは、イエスさまにしかわからないことですから、このネットチャーチこそが真実を語っているなどと、我田引水はしません。間違いがあるかもしれません。

最終的にネットチャーチにつながることになったとしても、一定の期間は、教会員にならないように(バブテスマを受けたいとか、教会の一員になりたいと告白しない)で、教会に出席することも大切かもしれません。バーチャルではない教会に出席してみることで、現実の教会の実態を肌で感じることができると思います。私自身もそうですが、2年間20箇所以上の教会でそういう体験をしてきました。

もちろん、よいことばかりではなく、教会内でいやな体験をする可能性も決して低くはないのですが、それも後から見れば、反面教師としてのよい体験になります。

しかし、いたずらに教会を批判することは、自分自身の心を荒廃させることにつながりますから、自重した方がよいと思います(自分自身の失敗の体験から話しています)。

駄目なところに対して悪口を言うよりは、自分を生かせる場所を見つけることの方がはるかに大切です。

エスさまも、「探しなさい、そうすれば見つかります。」と言っています。

けれども、これは見つかるまで、探すことをやめてはならないということであって、簡単に妥協したり、諦めてしまっては、本当に求めているものは与えられないということです。

何事でも、楽して成果は得られないものです。必要な努力は成果が出るまで、辛抱強く続けることが大切です。

近くの教会は通うのには楽ですが、遠くても通う価値の高い教会もあります。

では、早速聖餐式を執り行います。

お手元に、パンと赤ぶどう酒(又は赤いぶどう液かトマトジュースや、赤い野菜ジュースでもかまいません。)要はイエスさまの血を連想させるものであればよいのです。たまたま、このときは、ぶどう酒を飲む習慣があったので、イエスさまはそれを使ったのにすぎません。

【聖書の記述から】

また、彼ら(12弟子)が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子達に与えて言われた。

「取って食べなさい。これはわたしのからだ
です。」

エスさまの体である、パンを食べてください。

また、杯を取り、感謝を捧げてのち、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために(ここで。、すべての人にと言っていないことは、残念ながらすべての人が救われるのではないという預言になっています)流されるものです。」

エスさまの流された血である、ぶどう酒を飲んでください。

以上で、ネットチャーチ【光】の聖餐式は終了です。

礼拝は、毎日行うべきで、24時間、起きているときにも、眠っているときにも私達は礼拝を行うことができます。

日曜日だけに教会に集まって礼拝式を行うのは、組織になると、色々な立場の人がいるので、毎日礼拝をするのが物理的に不可能だからです。しかし、早天祈祷会をして、毎日イエスさまに祈りを捧げている教会もたくさんあります。

死んだ後は、聖書の黙示録にあるように、あの世で毎日礼拝しているのでしょうか。

この世の礼拝と同じようなものなら、飽きてしまいそうですが。

かなり不謹慎なことを言っているかもしれません。

では、今日の聖書の箇所に入ります。

地の塩

塩は色々な働きをします。

一見砂糖の方が、美味しさという点では優っているようにも思えますが、塩の方がはるかに優っている点もたくさんあります。

まず、虫歯の原因になりません。むしろ歯茎を引き締めてくれます。

そのほか塩の効用は、数えきれないほどたくさんあります。夏場で、塩漬けにした魚は腐りにくくなります。

塩が塩のような色と形をしていても、その成分が失われてしまっていたとしたら、塩の役割は果たせません。

エスの言葉は、ここでは実りのあるクリスチャンになれと言っているように聴こえます。

清潔な服装で、礼拝を守り、きちんと献金もし、その他のもろもろの規則にも落ち度がない社会から良いイメージを持たれるようなクリスチャンもいますが、ここでは、外見よりも、イエスはむしろクリスチャンの内面的なことを言っているような気がします。

エスがクリスチャンに命じたことは、
「神を愛しなさい。それと同じように隣人を愛しなさい。」という2つのことだけです。

これを完璧に守れれば、すべての違反に関する律法を守って、さらにそれ以上のことをしたことになると言っています。

エスが言っているように、「愛は、多くの罪を覆(おお)う」からです。

エス安息日の律法を犯してまで、病人を癒したのは、愛によるものでした。

しかし、律法主義にとらわれていたユダヤ人指導者達には、そのことが許せなかったのです。自分達の権威が地に落ちてしまうからです。

門限の時間を決めるのは、その家の子供を危険から守るという気持ちもあると思いますが、子供が交通事故を起こしたのに、門限の時間の方を重視して(あるいは親に怒られるのを恐がって)、門限に遅れるからと怪我した人を放っておいたまま家に向かったとしたら、門限という【規則】は守れても、轢き逃げという、より大きな間違いである【犯罪】を犯すことになります。

数年前の事件ですが、大人の男と遊んでいて、門限に遅れ、親に怒られるのを恐れて、無実の人達を巻き込んで冤罪を作り、自分は親に怒られるのを逃れた少女もいました。

裁判では、女性の裁判官が有罪を宣言しましたが、その後、冤罪を主張して被告人の家族が、色々な矛盾点を指摘し、訴えた少女の供述も二転三転したにもかかわらず、判決は覆えらず、被告人達は、職場を解雇され、懲役刑に服しました。

女性差別が問題視される中で、男性冤罪の痴漢被害も増えています。

女性は弱いもの、性的な事件については100%男性側の発言は信頼できないという先入観が、その女性裁判官にはあったのかもしれません。

嘘をつくことに、男女間での優劣関係はありません。どちらも嘘をつきます。

日本が、確かにまだまだ男性優位社会であることは認めますが、先入観のない公平な判断が、社会のすべての局面で求められていると思います。

話は聖書に戻りますが、

エスが、「あなた方は、ぶよはこすが、らくだは飲み込んでいる。」と言ったのは、律法学者達の間違いを痛烈に批判した言葉です。

そこには、規則を守る律儀さはあっても、相手に対する愛のかけらさえもないからです。

「あなたがたは、世の光です。」

やはりイエスが、自分を主としてあがめると告白した人々(クリスチャン)に向かって発した言葉ですが、自分にこの言葉を当てはめてみて、「その通りです。私は確かに世の光です。」と言えるクリスチャンは、果たして何人いるでしょうか。

「いえ、いえ、わたしなんか世の光どころか、ろうそくの灯りの値打ちもありません。」と、多くのクリスチャンはしり込みするのではないでしょうか。

そこで、いつも救いになるのが、「そのままのあなたでいいんです。神さまが、イエスさまを、人の罪の身代わりの犠牲にしたのは、人間がどうにもこうにもしようもない存在だと、人間の自力更正に期待するのをあきらめたからです。それでも何とかして私達罪人であるどうしようもない人間を救おうと、無い知恵(おっと、失礼。神さまはあり余る知恵を持っている全知全能な方でしたね)を絞った末に、出した結論は、わが子を身代わりにしても私達を罪から救いだそうという、信じがたい愛情のためでした。だから、あなたは今のあなたのままでも、イエスさまの犠牲のゆえに神さまに受け入れられているのです。」という牧師の言葉です。

自己否定から出発して、自力で向上しようとするのは立派なことですが、誰にでもできることではありません。

駄目な自分を否定することを、一旦やめて受け入れることも必要です。

クリスチャンだから、今の自分より立派な人間にならなければと自力で頑張るのは、ストレスになります。純粋に自分のために頑張るだけでも、なかなか思うようにならず、ストレスと挫折感を味わうことが多いのに、ましてや他人の目を気にする、虚栄心をモチベーションとして頑張り続けるなら、本人はそのことに気がついていないでやっていたとしても、そのストレスは何倍にも膨れ上がってしまい、やがて、それはいびつな形になって周りの人への干渉や、批判や、攻撃として吐き出されていきます。クリスチャンとしての形に捕らわれた結果です。

本物のクリスチャンの心は、外側に現れて来ますが、形が整っているから、中身も正しいとは限りません。

逆もまた、真ならずです

もっとも、最初から、自堕落でいいのだと開き直っている確信犯の人は別ですが。

しかし、そういう人でさえ、神が人間に自由意思を与えている以上、どのように生きるかは、神からその人に任されてのです。

ジョークの話になっていますが、「からす、なぜ鳴くの。からすの勝手でしょ。」という、かつて流行した言葉は、つきつめて言えば、まさに人間の自由意思は、神も止めないということを示したひとつの例だと思います。

だからと言って、必ずしも表面的には因果応報という結果に終わらないところが、この世の難しい所で、それは人を誘惑する悪魔がいるからで、またその悪魔のいうことに賛同する人も数多くいるからです。

神がいるのなら、どうしてこんなことがという言葉がよく言われるのは、この世的なスパンでは、必ずしも因果応報の法則は当てはまりません。

それは、神が直接人間の作り出した、幸、不幸に立ち入って自ら矯正したりはしないからです。

人は困ったことに出会うと、他力本願になり、なぜ神はこんなに不幸にな目に会っているのに、わたしを助けないのかと言いますが、ご利益にしても、不幸からの脱出にしても、自分が何もしないで、神が勝手に助けてくれることは決してありません。

「天は自ら(人を)助けるものを、助ける。」のです。

神は自分のことにしか関心がない人を助けもしなければ、罰することもしません。


それこそ、本人の自由意思を尊重しているのです。なぜなら、人間をそういうものとして神に似せて創造したからです。

とすると、自らを向上させていくためには、人間が、自ら自分の自由意思を律しなければならないということになります。

それについては、日蓮の言葉にふさわしいものがあります。

「(自分が自分の)心の師とはなっても(自分の心の支配者になるべきで)、(自分の)心を師とせざれ(自分の心に振り回されるな)」というものです。

自由意思を野放しにすれば、手のつけられない無法者になるからです。

キリストに従うということは、決して簡単なことではありません。

世の中には、魅力的な誘惑がたくさんあります。悪魔が怖い姿で現れたら、みな逃げるでしょうが、悪魔はどんなものにでも化けられます。聖書では、み使い(天使)にさえ化けると言われていますが、同じクリスチャン仲間にも、牧師にも、偽キリストにも化けます。

また、多くの世の中にあり、魅力的な価値あるものとされているものにも化けて、私達を誘惑してきます。これに抗うことは至難の技です。

ただひとつできる方法は、そういう危ない所(教会や神学校等のキリスト教施設を含む。一説には、神学校は悪魔の巣窟だとさえ言われているほどです。悪魔は神に近づこうとするものほど、激しく妨害にかかるからです。神の側に多くの人がついては、自分の活躍場所がなくなるからです。)には、近づかないことです。

世の中には、ありとあらゆる魅力的な誘惑が溢れています。私達は、否応なしにそれらの人や物と同居せざるを得ません。

だから、危険エリアには近づかないのが一番懸命なのです。ミイラ取りがミイラにならないためにも。

「君子危うきに近よらず」です。

このあと、イエスの話は律法の中に深く入り込んでいきます。

形の上で法律(語句の変換が面倒なので、以下、律法を法律と書きます。)を守っていても、心に思っただけで、実行しなくても同罪
だというところです。

ここが、社会の法律とイエスの罪認識の根本的に違うところです。イエスの倫理基準は、世の法律よりもはるかに厳しいのです。

だから、一般社会人は、
キリスト教って色々厳しい制限があって、縛られるからいやだ。」と言って、敬遠しているのでしょう。

それは、喫煙の禁止という、聖書には記述がなく、キリスト教の指導者が作った規則もありますが、本質的には、罪とはイエスから見れば、行為に及んでいなくても、心に思った時点で、すでに罪を犯したのと同じことであるという、厳しい倫理基準があるからです。

「罪とは、的はずれなこと」という言葉は、既成の牧師がよく言う言葉ですが、そう言っている牧師自身の言葉が、本人は気がついていなくても、的はずれになっていることはよくあります。

それは、聖書の言葉に頼りっきりで、よく自分で考えないで、何でもそれに当てはめてしまうからです。

聖書読みの聖書知らずというか、

聖書の知識はあり余るほどあっても、キリスト教関係以外の本をほとんど読まない牧師は、この過ちを犯します。

「学びて思わざればすなわち罔(くら)し。思いて学ばざればすなわち殆(あや)うし」

これは、論語の言葉ですが、聖書の言葉を一字一句間違いのない神の言葉という福音派の考え方に洗脳されてしまっている人は、自分の頭で聖書を検証しようとはしないので、他の本を読まないか、読んでも全部聖書の言葉に当てはめて考えてしまいます。

また、世間の常識や現代科学が万能だと信じている人は、その知識をもって聖書全体を否定しにかかります。

そのどちらもが、正しくない態度です。

正しい道は、その中間にあります。

ただし、非常に苦労を伴う道です。

面倒なことの嫌いな人は、既成のキリスト教を受け入れた方が、楽な信仰生活を送れるでしょう。

私は、お勧めする立場にはいませんが。

イエスの言行研究会 マタイ第5章の1

今日はマタイの福音書の5章の1~12節を見ていきます。

有名な山上の垂訓と言われているところです。

いまさらそれか、と思われるクリスチャンの方も多いかもしれませんが、イエスの最初のまとまった説教なので、通りすぎないで見ていこうと思います。

まず7つの有名な言葉が書かれています。

1 心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。

この言葉は最初はおかしな言葉だと思いました。心の貧しいということは、良くないと思っていたからです。訳語の問題もありますが、普通は心の豊かな人は良い人というイメージが社会的な常識ですから、初めてこの言葉に接した人は、奇異な感じを受けるものです。

エスの価値観は、社会の通常の価値観とは違いますし、真逆の場合が多いです。

この場合は、心の貧しい=貪欲ということではなく、謙虚と訳すとわかりやすくなります。要するに自己チューではない人のことを言っています。

他人に優しい人は、神の国を見る(心の中に神の国を持っている)というようなことなのでしょう。

2 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

これも、ちょっと見ると、何で悲しみが幸いなんだ。喜びの方がいいに決まってるだろうというのが、世間的な見方です。

「慰めなんか何の役に立つんだ。
同情するなら金をくれ。」というのが世人の本音かもしれません。

しかし、ここでイエスが言っている悲しむ人とは、神の御心に添(そ)った悲しみのことです。

よく「他人の痛みは3年でも、耐えられる」と言いますが、人は自分のことでは、悲しむことは簡単ですが、人のこととなると、なかなか自分に同じ体験がないと、真に同情するのは難しいものです。

ある人が、二人の人に職場で虐めを受けていました。1対2ですから、1対1よりもより分が悪い状態です。向こうはぐるですから、一緒になって虐めにかかってきます。

しかし、ある時、虐めを受けている人の父親が、癌にかかって入院しました。

その話が、職場で噂として広がると、虐めをしていた内の一人が、急にその人への虐めをやめてしまいました。もう一人がけしかけて虐めようとしますが、頑として応じません。

虐めを続けようとしていた男は不満そうでしたが、後で、その虐めをやめた人が、虐められていた人に直接こう言ったそうです。

「家族に癌患者がいると大変だよ。自分も300万円くらい治療費を払い込んだし、精神的にもつらい。」

彼が虐めをやめた理由は、同病相憐れむという心境のためだったのです。

もう一人の虐め男にはそういう体験がなく、その話を聴いても虐めをやめようとはしませんでしたが、ぐるになって虐めていた相棒が、急に虐めていた相手に同情的になって、もう一人の男が彼を虐めようとすると。やめろと制止するようになったので、戦意を喪失して、それ以後虐めをしなくなったそうです。

虐めをやめた人にすれば、同じ癌家族を持つ彼が、これから味わう苦しみを思うと、自分が虐められているような気持ちになったのではないでしょうか。

また、別の話ですが、母子家庭で、二人姉弟の母親が亡くなった時に、葬式で色々な人からお悔やみを言われたそうですが、ありきたりな同情の慰めの言葉が多い中で、もっとも心に染みたのは、「悲しみのあまり、慰めの言葉もありません。」と言って、その場に泣き崩れた人の様子を見た時だと、息子が言っていました。

ですから、ここでいう悲しみとは、自分のための悲しみではなく、他人のための悲しみ(それこそが、神の御心に添った悲しみで、相手に対する思いやりから出てくるもの)です。

また、逆の例としては、田舎にいた頃、片腕を失った一人の女性がいました。ご主人のために煙草屋にたばこを買いに度々訪れていました。

すると、煙草屋の女主人は、その女性がたばこを買いに来る度に、その女性の体を見ながら、その女性にいつもこう言うのだそうです。

「あんたは右腕がなくて、本当に可哀想だね。」と。

傷口に砂を刷り込む行為というのは、こういうことをいうのでしょう。

健常者の優越感からの、一見同情心とも見える言葉の裏に隠された、相手に対する差別の感情。

こういう言葉を言うのなら、本人がいない所で第3者に言うべき言葉でしょう。悪口としてではなく、同情の言葉として。

言われていた、本人の気持ちはいかばかりであったでしょうか。

優しい性格でなかったら、同情めかした侮蔑の言葉に対して、相手に噛みついていたかもしれません。

しかし、そうすれば相手は、「同情の言葉をかけてやったのに、こっちに噛みついてきたのよ。やっぱり身障者ってひがみぽいって本当だわね。」と、その時こそ第3者に悪口を言って触れまわるでしょう。

本心からの同情なら、決してこういうことはしないはずですから。

まことに、「度しがたくは世人である」という言葉は本当だと思います。

また、教会の中にもこういうことをする人がいます。

あるクリスチャンの奥さんの子供さんが、精神疾患を患っていました。御主人は京都大学出身のエリート。自身も公的な教育関係の仕事に携わっていましたが、夫婦共稼ぎのため、息子は鍵っ子で寂しい少年期を過ごし、やがて精神疾患を患うようになってしまいました。

母親であるその奥さんは、今でもその事を悔やんでいるのですが、その家庭事情を知った同じ教会のクリスチャン婦人が、何の目的なのかはわからないのですが、教会で会うたびに、「息子さんがそのような状態で、大変ですね。」と、触れられたくない部分に、毎回挨拶がてらに触れてくるというのです。

「ご心配いただいてありがとうございます。」という言葉を、ぐちゃぐちゃにされた気持ちの中で返すのが、精一杯だと言っていました。

これが、このイエスの言葉「あなたがしてもらいたいことを、他の人にもしてあげなさい。(裏をかえせば、「あなたがされたくないことは、他の人にもしないようにしなさい。」ということです)」を知っているはずのクリスチャンの言うべき言葉なのでしょうか。

これも同情するふりをして、相手の傷口に砂を塗りつける行為です。

相手の社会的な立場の高いことに対する羨ましさが、嫉妬に変わり、そのいいはけ口を家庭の不幸に見つけたあげくの行為なのでしょうか。

社会の中のノンクリスチャンでさえしないことを、イエスの言葉を知っているはずのクリスチャンの中に、こういうことをする人がいるというのも、残念ながら現実なのです。

教会に集まっている人たちが、みないい人ばかりでないのは、社会と同じことです。

教会は特別な場所だと言われていますが、皆が一致して、イエスに従うような理想的な教会でなければ、一般社会と同じです。

むしろ、一般社会では罪とまでは言われないことも、罪だ罪だと言われて、それだけに、それに基づいて他人を裁くことも多くなってきます。

エスが言われた、「人を裁いてはならない。」という言葉を実行するのは、クリスチャンにとっては、なかなか難しいことのようです。

自分では、そうと気づかずに人を裁いている場合もあります。

最終的に、人を裁けるのは、人の罪のために自らの命を差し出したイエスだけですが、彼は、最後まで人を裁きませんでした。自分を無実の罪で殺した人々さえも。

ましてや、私達罪人に人を裁く資格があるでしょうか。

エスが再臨するときには、裁き主てして来ると言われていますが、それさえも、イエスを使わした神の指示によってやることであって、人間がイエスを信じないと、やがてイエスによって裁かれて地獄に行くなどとは、人間が神の座に座って話すことであり、われわれ人間がするべきことではなく、それこそ神の呪いを受ける行為です。

神と、神に成り代わって話した人との間には、次のような会話が成立することでしょう。


「お前は誰の許可を得て、そのようなことを言うのか。」

人間
「いいえ、神さま。私は聖書に書かれてあるあなたの言葉を代弁しただけです。」


「人は神の座に座って人を裁くことはできない。なぜなら、あなた自身が裁かれるべき人なのだから。」

人間
「いいえ、神さま。私は決してあなたに裁かれたくはありません。」


「それなら、あなたは人を裁いてはならない。あなたが裁く、その計りであなた自身が私によって裁かれることになるからだ。ただ、私が罪の許しのために遣わしたイエスを信じ、彼に従いなさい。彼の思いのすべてはわたしの思いと同じなのだから。」

教会には邪悪な人もいます。国の法律を犯した犯罪者だった人もいます。

エスは全ての人を招いておられるので、色々な人が来ます。

しかし、イエスは邪悪さを嫌います。

自分の邪悪さを持ったまま、天国に行きたいために、礼拝に出席し、献金しても残念ながら天国には行けません。

なぜなら、天国へ行ける資格は、その人の心のありようで決まるのであり、イエスを救い主と信じると告白しても、よい実を結ばない人は天国には行けません。

天国は、この世界以外のどこかにある場所ではなく、この世にあるからです。

エスの言うように、「神の国はあなたのただ中(心の中)にある。」ということです。

3 柔和な人は幸いです。その人達は地を受け継ぐからです。

これについては、異論のある人がいるだろうと思います 。

悪人でも、子孫に地(不動産)を受け継いでいるではないか。
柔和な人が、騙されて土地を取り上げられたり、公共事業で立ち退きたくないのに、裁判にかけられて、撤去を余儀なくされたりしている人達もいるではないか。

言い分は、もっともなことだと思います。。

ここで、イエスの言葉が唯一当てはまる場合を聖書の中から探すとすると、イスラエルの民が、出エジプト後に、カナンの地を先住民との戦いの末に獲得した後に、イスラエルの民の不信仰の罪(偶像礼拝やその他のもろもろの律法違反の罪)のために、多民族の侵入を受けて、居住地を失ったことが、逆説的な意味ですが、当てはまると思います。

4 義に飢え渇く者は幸いです。その人達は満ち足りるからです。

義に飢え渇く者とは、正しいことを求める人のことです。

パウロは「義人はいない。一人もいない。」と極論していますが、これはイエスと比べた場合の話で、ケースバイケースでは、人が正しいことを求めることはあると思います。

しかし、イエスの言っている義が、神に匹敵する正しさということを言っているのだとしたら、残念ながら、その基準を満たすのは、イエス・キリストただ一人ということになります。

人間には、とうてい到達できないような、非常に高い倫理基準ですから。少なくとも、私はたとえ目指しても、残念ながらできないと思います。

5 憐れみ深い人は幸いです。その人達はあわれみを受けるからです。

「情けは人の為ならず」という言葉もありますが、
反対に「恩を仇で返す」「飼い犬に手を噛まれる」という現実があることも確かです。

人からのあわれみは、相対的です。

この場合は、状況には左右されない、神の絶対的な憐れみ(自分の命を捨てることになっても、相手を愛し続ける)のことを言っているのでしょう。

これも、とうていわたしのような凡庸な人間には、実行不可能なことです。

6 心のきよい者は幸いです。その人達は神を見るからです。

これは、信仰心を持っている人に対して言っている言葉ですが、たとえイエスを知らなくても、イエスが言っていることを知らずに実行している人は、知っていながら実行しない人より、はるかに神の目に叶った人であるということだと思います。。

クリスチャン、必ずしもクリスチャン足り得ず。ノンクリスチャン、必ずしも神の目に叶わぬ者となるわけではない。というわけです。

自称クリスチャンが、必ずしもイエスの言うことに従っているわけではないということですね。その人が確信犯なら、偽クリスチャンと言われても仕方がないでしょう。

キリストの身代わりの犠牲を、自分勝手な理由で利用していないか、自分を始め、常に自己吟味を怠らないようにしたいものです。

もし、クリスチャンと名乗っているならば。

7 平和をつくる者は幸いです。その人達は神の子と呼ばれるからです。

平和を作り出す人は、何もクリスチャンだけとは限りません。クリスチャン同士で、平和どころか罵(ののし)り合うこともあります。

エスを知らずとも、イエスの言うことを実行している人は、イエスから胸の中に、クリスチャンの称号をいただいている人だということができると思います。。

7 義のために迫害されている人は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

この言葉にふさわしいのは、日本では、明治以後では、戦時に軍部に抵抗を続けて、迫害を受けたり、殺されたりした当時のホーリネス系のクリスチャンがその代表的な例でしょう。軍部に迎合して生き残ったクリスチャンは、残念ながら失格です。

しかし、イエスの弟子達も、イエスの十字架の迫害の時には、皆逃げ去り、イエスへの信仰は隠しました。

しかし、イエスの復活を自ら体験することにより立ち直り、その後は宣教に命をかけました。

日本のさまざまな教派のクリスチャンも、戦後にこのように悔い改めたのでしょうか。

日本基督教団では、戦争加担への責任に対する謝罪は、戦争体験者の謝罪文掲載への反対により、ながらく謝罪文は出されませんでした。

現在のクリスチャンの中枢部にいる人は、ほとんどその人達の教えを受けて育った人々です。

若い指導者達に期待しています。

イエスの言行研究会 マタイ第4章

エスが40日40夜断食した後で、サタンが近づいてきて、イエスを試みました。

1 空腹のイエスに対して、「神の子なら、この石をパンに変えなさい。」

2 「あなたが神の子なら、神殿の頂きから下に身を投げてみなさい。『神はみ使い達に命じて、あなたが石に打ちつけられないようにする』と書いてあるから。」

3 「もし、ひれ伏して私を拝むなら、全世界を支配する権威をあなたに差し上げましょう。」

以上の3つが、悪魔からイエスへの誘惑です。

まず1番目の誘惑について。

人は本能的な誘惑には、極めて弱いものです。性的な誘惑(他人からのものだけでなく、自分自身の内側から突き動かす性衝動)に、完全に打ち勝てる人は、おそらく一人もいないと思います。

ダイエットに失敗する人が多いのも、食欲という本能が、いかに強いものかということを示しているのではないでしょうか。

旧約聖書の創世記にも、空腹のあまり、パンとレンズ豆と交換に、長子の権利を弟のヤコブに売り渡してしまったエサウの話が載っています。

断食後の空腹時に、石をパンに変えることなど、イエスにとっては朝飯前のことだったろうと思われます。

ここで重要なのは、イエスが、単に空腹時に食べることを我慢したという事実ではありません。人間は空腹時には食べるべきです。
我慢する必要はないと思います。むしろ空腹時に食べ物がなかったら、そのことの方が大きな問題です。

余談になりますが、キリスト教徒も、イスラム教徒も同じように断食をします。しかし、断食後の制限はないので、かえってその後に食べ過ぎて太ってしまう人もいるといいます。

日曜日に半日断食して、食べ物のない人達のことに思いを馳せる時間を持ち、その分を献金すると決めている教会もあるようですが、あくまでも各クリスチャンの自主性に任せるべきで、教会単位で決める規則ではないのではないでしょうか。

指導者の独断専行は、よいリーダーシップではありません。独断先行するだけなら本人の自由ですが、リーダーが教会をまきこんで規則化するのには閉口します。こんな教会は行くのをやめてしまった方が、クリスチャン本人のためではないでしょうか。

イスラム教のラマダーンの場合は、儀式になっているので、遵守しなければいけない戒律になっています。そのため、イスラム教国では、ラマダーンの1ヶ月間は、昼間は断食して居るので、食品を扱う店は昼間はお客さんが来ないので、閉店して夜間営業のみになっている店が多いです。

しかしトルコは、東洋と西洋の境目に位置しているので、西洋のキリスト教の影響を受けていて、それほどイスラム教の戒律に厳しく縛られてはいない国です。

さて、本題に戻ります。

1で重要なのは、これが悪魔の誘惑だったという事実です。悪魔の誘惑に従えば、悪魔の仲間になります。イエスが「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。」と、聖書の別の箇所からの神の言葉を引用して、悪魔の誘惑を退けたのはさすがだと思います。

ここで大切なのは、イエスはパンは生きるために必要ではないとは言っていないということです。パンも神の言葉も同じように大切だと言っているのです。

パン(食べ物)は、身体を養うのに必要であり、神の言葉は人間の霊的(精神、心)な領域を成長させるために必要であるということです。

さらにここで重要なのは、宗教的な偏りへの警鐘です。魂の救いのためなら、身体はどうなってもいいというような極論を唱える人がいますが、イエスはここでそういうことは言っていません。

食べ物のことに限らず、信徒に極端に厳しいことを科す指導者は、熱心なのではなく狂信者であり独裁者であると思います。つまり偽キリスト教徒(キリストのふりをした悪魔)であるということを見破らなければいけないのです。

熱心と狂信は、一見見た目は似ていますが、その行き着く先は、全く別の場所です。

筆者がかつて行った教会で、日曜日は礼拝を第一にして、用事は第二番目以降にするようにと言われましたが、こちらにしてみれば、正直なところ余計なお世話だと思いました。

神に仕えることが大切なことはよく知っていますし、礼拝がその一つの形であることも知っていますが、教会の礼拝を第一にせよというのなら、その礼拝内容が実質的に、本当に、他の用事をすることよりも大切なものになっているのかどうかということの検証が牧会者には必要だろうと思うのです。

もし、信徒が礼拝出席よりも、他の用事を第一にしているとしたら、それを信徒の不信仰のためと決めつける前に、正しい指導者なら、逆にその教会の礼拝が、信徒から、他の用事をするよりも実質的に大切なものと思われるようなものになっているかどうかが問われているのだと思うべきなのです。

しかし、ほとんどそう思ってないし、信徒の義務不履行にしたほうが楽なので、全て信徒責任にしてしまいます。

礼拝出席を第一にするかどうかは、本人に任せるべきであるのは、信徒の自主性を重んじるべきです。たとえ責任のある教会員であろうと、彼に対して、礼拝出席を他の用事よりも優先せよと命じるのは、その礼拝がそれだけの価値があるものになっているかどうかを決めるのは信徒自身であるのですから、決して牧師が信徒に対して命じるべきことではないと思うのです。

こんなことを信徒に言うような、教会には行かない方が良いでしょう。

神様の命令だからと、こちらの信仰心に漬け込んで縛りにかかる行為だと思います。

神のためであり、クリスチャンとしての当然の責任だと言いますが、キリスト教は人を自由にする宗教であり、人の自由意思を縛りつけるものではありません。

神でさえ、人間が善悪どちらを選ぶかを、本人に任せているのですから、人が人に余計な指示や命令をするのは、個人の人権の尊厳を無視した指導者(良い牧師ならそんなことはしない)の越権行為だと思います。

エスさまは、自分以外を師と読んではいけないとおっしゃいましたが、神父とか牧師とか、おそれ多い役職名で呼ばれているのが通例です。先生とも呼ばれます。

多分、よっぽど偉い存在だと自分でも思い、周りの人も先生と言って持ち上げますから、自然にそうなってしまうのでしょう。

現代では、神学校を出ないと教役者にはなれない時代になりましたから。

エスの12弟子は、みな無学な人でしたが、今のイエスさまの代わりに説教している人は、みな学者のようです。

指導者といいますが、誰があなた(牧師)をわたし(信徒)の指導者にしたのでしょうか。

神学校を出て資格を取ると、職業として成り立ちます。公務員や教師と同じように月給で生活しています。

違うのは、月給の原資が、税金か献金かという違いだけです。

信徒がいなければ、神父や牧師という仕事は職業として成り立ちません。

神父や牧師は、信徒をリードしていく立場のようですが、信徒に養われている身です。神様のためという言葉が、全てのことについて、信徒を黙らせてしまうのでしょう。

神父や牧師は、神学校に行って資格を得て、より上位の人(神学校の中で按手礼の資格のある人)から、神の使いとしての按手礼を受けた神から遣わされたものであると言うのでしょうが、本当に神から遣わされたのはイエス・キリストを初めとする限られた人達だけであり、神学校を卒業しただけでは、たとえ按手礼を受けていても、人の作った組織を通過して、信徒総会で招聘された教会で働いているだけで、真にイエス・キリストによって遣わされた者かどうかは、その後の言行がイエスの言葉と合っているかどうかということが、信徒によって常に検証されなければならないでしょうし、そういう神父や牧師を含まない、信徒だけで作る信徒会という組織も必要でしょう。

年一回の総会がそれに当たると言われるかもしれませんが、普段の礼拝や集会の中で、すでに牧師に信徒が洗脳されてしまっているようなら、完全にアウトです。もうなす術はありません。牧師の言いなりです。こっちが金で支えているのだから、言いたいことを言っていいのです。

神様の名を出されたからと言って、信心深さを強要されて、黙る必要はないのです。

神様への献金という指導者の言葉が、真摯な信徒にとっては、言いたい心に縛りをかけられます。

「わたしは、あなた(牧師)の命令を守るために、この教会に来たのではない。この教会(の礼拝)にくること=イエスに従うことであるという条件が礼拝内で満たされている時にのみ来るだけである。」と言いたいところですが、なかなかそこまで言う勇気のある人はいないでしょう。

教会も、社会にある組織の一つに過ぎないのですから。

色々な人がいて当然なのです。

教会員の資格を停止すると言われたら、大いに喜べば良いのてす。余計な献金の心配をしなくてもよくなるし、貯金をする余裕もできます。献金は天に宝を積む行為と言われて奨励(半ば強要)されていますが、実際は全て人のために使われるのです。

神にとって、金なんかは必要ないものですから。

「資格は停止だが、献金は神様への義務だからしなさい。」、と言われたら、そんな教会はやめればいい。

税金と違って、滞納として請求書が家にまで送られて来ることはまずありません。差し押さえもできない。個人に権利のある財産ですから。

私が、教会に通うのをやめて、このブログを立ち上げた理由は、イエスの言行が信仰の対象の全てであると思ったことに起因しているのが根本的な理由ですが、教会という人間が作り上げた組織に対するさまざまな疑問があったことも、大きな理由の一つです。ここまでの記述を見ていただいて、その理由の一端がわかっていただけたかと思います。

次に、2について見ていきます。

これは、よくパフォーマンス好きな人を戒める例として挙げられます。さまざまな奇跡を行い、神の人としてマスコミにもてはやされ、本人もその気になり、有名になることが最終目的の人のことです。

エスは、奇跡を行っても、人には話さないようにと、よく本人に戒めていました。人気者や有名人になることが目的ではなかったからです。

そのようなイエスに対して、このような誘惑を持ちかけることは、無駄です。悪魔にそのような力を見せつけても何の益にもならないからです。しかし、信徒の場合は、うっかり悪魔の手に引っかけられて、その言葉に従えば、信徒は地面に叩きつけられて死ぬことになります。こういうのは、盲信と言います。

悪魔は、イエスの英雄心をくすぐることに失敗しました。当然です。イエスは神の子であって、ユダヤ人の英雄になる気など、さらさらなかったからです。

次に3を見てみましょう。

これは、人にとっては魅力的な誘惑だろと思います。この世の中で自分の思い通りにならないことはなくなるのです。こんな魅力的なことはないでしょう。人なら誰でも魅入られてしまいそうです。

小説にも、自分の欲しいものを手に入れるために悪魔に魂を売った男の話がありました。

藤子不二雄の「笑うセールスマン」も、一つだけですが、自分の願う幸せを叶えてくれる話です。しかし、皆、欲望の度を越してしまったあげく、不幸になって行きます。

宝くじの高額当選者で、生活破綻者になる人は、実に7割に及ぶそうです。

ここでは、イエスは「神にだけ仕えよ。」と旧約聖書の言葉を使って、悪魔の誘惑を退けますが、別の箇所では、「人は全世界を手に入れたとしても、まことの命を損じたら、何のよいところがあろうか。」と言っています。

世間では、何事もほどほどにと言い、仏教では中道を説きます。しかし人間の欲望には限りがなく、飽くなき追究心が、一つのことに集中するあまり、他のことを顧みなくなり、その事が自分自身や、周囲の人々の不幸をも生みだしています。

この後、バプテスマのヨハネが、ヘロデ・アンティパス(2代目)に捕らえられたと聞いて、イエスガリラヤへ退きました。

自分も危ないと思ったためでしょうか。

一時、ユダヤ人指導者達に殺されそうになった時に、捕らえられないようにした時には、まだ、時が来ていなかったからだと記述されています。

ヘロデに捕まって殺されることは、イエスの本意ではなかったのでしょう。

エスは、過ぎ越しの子羊として、その役割を果たすためにこの世に来たのです。

エスの言葉を聴くと、確かに罪の許しの象徴として、自分の身体を砕いて、血を流すことに言及しています。

罪の許しのための犠牲は、出エジプト以来のユダヤ教の伝統であり、ユダヤ人達はそれとは気づかずに、自分達の伝統に従って、イエスを偽キリストとして十字架で殺しました。

しかし、神の側から見れば、それは人間の罪ための過ぎ越しの犠牲と見なされたのです。

それが、全世界の人々を赦すために、神がとった方法です。

これが、キリスト教の贖罪説です。

生前にキリスト自身がそう言っていたのだから、間違いないでしょう。この言葉が福音記者の捏造でないならばですが。

キリストの十字架が人間の贖罪のためであるという思想が、神の真意なのか、十字架刑という事実に基づいて、人間が意味づけをしたものなのかは、慎重に検証されるべきことでしょう。

特に、福音書の成立が、パウロの書簡よりも後に成立したことを考えると、福音書のイエスの言葉は、本当に本人の言ったものだけなのか、それとも、すでに蟻の這い出る隙間もないほどに詳細に造り上げられたパウロの神学の裏づけをするために、書かれた部分もあるのかは、どれを信じるかは各自の自由ですが、真実は不明であるというのが真実を言っていると思います。

偽典とされているユダ書には、ユダがイエスに自分をユダヤ人指導者達に売り渡すように頼んだという記述がありますが、イエスが人類の全ての罪を背負って犠牲になったということが真実なら、このような解釈も成り立つわけで、ユダは裏切り者どころか、キリストの贖罪の業の功労者であることになります。

しかし。福音書のイエスの言葉とされている、「人の子を裏切るような者は、生まれなかった方がよかったのです。」という言葉により、ユダ書は偽典とされました。

とすると、イエスを十字架に掛けて殺したユダヤ人達は、やはり神に対する裏切り者という立場であり、自分達のユダヤ教の世界から生まれたキリストを殺した、極悪人という位置づけになります。

しかし、イエスを信じる者にとっては、罪の過ぎ越しの救い主となるのです。

あくまでも、キリスト教の教えによればそうであるということであり、キリスト贖罪説が神の意思なのか、人間の考え出した素晴らしいねつ造なのかは、誰にもわかりません。

ユダヤ人の子孫が、自分達の先祖が殺した人存在が、真のキリストであると気づいた時、ユダヤ教キリスト教に組み込まれる運命にあります。

エスガリラヤ地方を中心に宣教したことは、イザヤ書の9章1~2節に預言の記述があります。

この時から、イエスの宣教が始まったとマタイの福音書には書いてあります。

その第一声は』「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」です。

この言葉は、すでにバプテスマのヨハネが言っていました。

彼の場合は、イエスの登場の預言であり、イエスの場合は、まさに今来ているという意味になるのでしょう。

ここで、急に話が飛びますが、長い間キリスト教の世界で問題になっていた同性愛の問題について言及しておきたいと思います。

さらに、話が飛躍しますが、同性愛は人間だけではなく、動物(哺乳類や魚類、昆虫など)の世界にも普通に見られる現象だといいます。

人間も動物も神が創造したとするキリスト教の教えに従って考えると、人間の同性愛が罪なら、動物の同性愛も神の命令に背いた行為であり、モーセの律法時代のユダヤ教の掟に従うならば、同性愛は罪なのだから、人間が死刑になったように、動物も殺されなければならなかったはずですが、その記述がなく、人間だけが死刑になったということが、旧約聖書が、神の書でありながらも、ユダヤ人の、ユダヤ人による、ユダヤ人という人間達のための書物でもあるのかなと思う処(ところ)です。

ちなみに、動物の同性愛には、交尾を伴うものと、精神的なものだけで、交尾は行わないものもあるそうです。

羊は動物の世界でも、もっとも同性愛の数が多い種だそうで、牝の獲得にあぶれた牡同士が仲良くなるケースが多いそうですが、牡同士での交尾はしない。同病相憐れむという訳でしょうか。

キリスト教世界では、同性愛についてもさまざまな見解があり、同性愛は罪ではない、同性愛の指向そのものを罪とする、恋愛感情を持ったら罪とする、性行為に及んだら罪とすると色々な見解に分かれています。

ダビデヨナタンの親密さは、性行為を伴ったものではなく、ヨナタンの父親のサウル王は、ダビデの命を狙っていた男であり、その中で育まれた二人の友情は、親密さは濃厚ですが、その感情は、友情とか同士愛に当たるもので、そこには恋愛感情のような記述は見られません。

ちなみに、聖書の中の同性愛と思われるような記述は、愛というカテゴリーには含まれない、強姦とか乱交とか買春とかいう形で記述されており、現代の人権主義に基づいた同性愛者の理解とは全く別物であることを、前提として知っていると、聖書の言葉をそのまま現代の市民の同性愛者に結びつける間違いは冒さないと思います。

キリスト教内で、その事に対する認識不足により、聖書の記述をただ字面の理解のみで、現代の人権主義の思想による同性愛への認識が欠けているために、ひとくくりに考えて罪と断定しているようです。

聖書の字句に拘るあまり、人権に対する考え方が遅れているというところが、キリスト教界全体に指摘されてしかるべきでないでしょうか。

閑話休題

さて、イエスはいよいよ弟子作りを始めます。

ガリラヤ湖のほとりで、漁師のシモン(ぺテロ)とアンデレの兄弟を弟子にします。

なんでもない、そこいらへんにいる普通のおじさんです。このあとの9章でユダヤ人に嫌われ者となっている、ローマの手先と見なされていた取税人のマタイも弟子にします。

エスの弟子の人選はなりふり構いません。人の評判ということを気にしないからです。

十二弟子というと、いかにも偉い立派な人を想像しまが、実際には、そこいらへんにいる普通のおっちゃんです。

実際、イエスが十字架につけられて殺されそうとした時には、全員イエスを見捨てて逃げてしまいました。

ぺテロにいたっては、自分のことを周りの人にイエスの弟子だと言われた時には、三回ともそんな人は知らないと言い、三回目には、呪いを掛けてまで誓って知らないと言い放っています。


ぺテロとアンデレを弟子にした後、イエスガリラヤ全土を巡って、(ユダヤ教の)会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを癒されました。

この文章からわかることは、イエスは身体の病気だけでなく、精神的な病いや、悩みや悲しみの中にいる人々をも癒したことがわかります。

エスのうわさはシリア全体に広まり、ありとあらゆる病気の人達がイエスのもとに連れてこられ、彼らはみな癒されました。

こうして、大勢の群衆がイエスにつき従ったのでした。

何の地位もないイエスが、これだけ民衆の人気を得たのは、当時のユダヤ教指導者が、いかにも力のない、話すだけの説教者になり下がり、自分の贅沢ばかりに関心を持つ存在になっていたからです。

ですが、つき従った群衆も、本心は、ご利益信仰で集まっていたであろうことは、容易に推測できます。

その証拠に、イエスが十字架に掛けられるときには、群衆は自分達を苦しめてきたユダヤ人指導者層にひよったからです。

群衆というものの本質は、そういうものだから仕方がないと言えばそれまでですが、果たして自分が、その当時生きていたら、同じ行為をしなかったとは言えません。

これが、2,000年前に起こっただけの出来事だと思ってはいけないのです。

当時の時代に生きていたら、自分はどう行動しただろうかと考えてみるべきです。

女性の方が、よりイエスのことを理解し、勇気が会ったようにも見えます。

話は違いますが、現代では信徒の多い教会は献金という行為を、神の名のもとに半ば強要(義務づけ)によって、また指導者層はその牧会で、当時のユダヤ教の指導者層と同じことをしています。

真に正しいの指導者の出現が待ち望まれます。

以上が第4章の内容です。

イエスの言行研究会 マタイ第3章

マタイの福音書から
第3章

ここには、バプテスマ(洗礼)のヨハネの記事があります。このヨハネは、イエスの12弟子の一人で、ヨハネ福音書ヨハネの手紙第1~第3、黙示録を書いたとされているヨハネとは別人です。

バプテスマのヨハネが現れたのは、イエスへの導き役としてでした。

彼は、罪を悔い改めて新生する儀式としての、水で洗って身を浄めるユダヤ教の儀式から、水で魂を浄めるための目に見える形の儀式としての、水によるバプテスマを人々に授けていたのです。

しかし、これは、イエスが来て、聖霊によるバプテスマを授けるまでの仮の儀式であり、ヨハネ自身が、イエスこそがユダヤ人の待ち焦がれていたキリストであり、彼自身がイエスが現れたら、自分は廃れなければならないと言っています。

この後、イエスバプテスマのヨハネのところに来て、水で洗礼を受けたいと申し出ます。

バプテスマのヨハネは、「私こそあなたから(聖霊の)バプテスマを受けなければならないのに、あなたが私のところにおいでになるとは。」と言いますが、イエスは、「正しいことをするのは、私にふさわしい。今は水でバプテスマを私に授けてほしい。」と言って、ヨルダン川で、水によるバプテスマを受けています。

現在の教会が、水を使った洗礼を行っているのは、この聖書の記事に基づいているのでしょう。

しかし、バプテスマのヨハネ自身が言っているように、水の洗礼は実際に魂までを浄める効果はなく、イエスによる火のバプテスマ(聖霊によるバプテスマ)を受けなければ、真に新生することはできないのです。

水による洗礼は、イエスによる火のバプテスマの雛型である儀式です。

その後に、

1 水から上がる時に、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをごらんになった。

2 また、天からこう告げる声が聴こえた。
「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という記述があります。

1は、イエス自身にだけ見えた光景のように、2は、記述者の耳にも聴こえたような記述になっています。

以上が、3章の内容です。

ここで初めて、イエスの話した言葉が記述されています。

ここの部分は、十字架にかかる前に、イエスが弟子の足を洗った洗足の儀式に通じるものがあります。

位の上の者が、位の下の者がするようなことを自らする(自分の身を低くして、仕える者となる)ということを現しています。

もともとは、神の世界にいたお方が、神の在り方(人間より上位にいる)を変えることはできないとは言わず、天から地上に下って、人間のために働いたということが、その事を現していると言えます。