イエスの言行研究会 マタイ第5章の2 主日
今日は、主日なので、聖餐をいただきます。
聖餐は、イエスの言葉から判断すると、キリスト教会の専有物にはあたりません。
イエスを信じる人には、誰にでも与えられます。また、イエスを主と告白していなくとも、自ら拒否するのでなければ、主はすべての人のためにその体を捧げ、血を流されたのですから、ネットチャーチ【光】では、希望する方には、全て聖餐を行う、フリー聖餐を行っています。
残念ながら、イエスはすべての人が救われるとは言っていませんが、わたしを信じるものはすべて救われると言っています。
ただし、水のバプテスマを受けたから、救われるとは限りません。真の救いは、イエスさまから聖霊のバブテスマを受けて、新生することです。イエスさまが、バブテスマのヨハネから水のバブテスマを受けられたのは、新生のための聖霊のバブテスマの雛形であり、儀式として行われたのです。
従って、水のバブテスマを受けているかどうかということは、新生のために必ずしも必要であるということではありません。
もちろん行ってもかまいませんが、行わなければ救われないということはありません。イエスさまを信じて告白したことの一つの証明として教会が行う儀式であり、現代では、実質的には、先に教会員になっている人からの承認であり、まだバプテスマを受けていない人に対しては、その準備のためのアピール効果になる(敢えてそうしているとは言いませんが)と思っていいでしょう。
その教会の教会員になるための、通過儀式であり、必ずしもイエスさまのためにだけ行っているというわけではないようです。教会員が増えることは、その教会のためにもなることですから。
もちろん、教会ではそんなことを口に出しては言いませんが
イエスさまが現れれば、バブテスマのヨハネは廃れなければならないことは、ヨハネ自身
が話していることです。
新生は、聖霊のバブテスマが鍵となります。
既成の教会で行われている洗礼式は、パフォーマンスとまでは言いませんが、象徴的であり、多分に儀式的な要素が大きいです。
来会者から教会員になるための、通過点にしているところが多いです。
教会員になれば、必然的に献金や奉仕の義務が生じてきます。
ネットチャーチのよいところとしては、街にある教会のように、牧師や教会堂という人的、物的な財産を持っていないので、牧師に支払う給料や、教会堂の修繕建築費や備品などに掛かる費用が発生しないので、見る人にそれらの負担を強いる必要がない所です。
既成の教会では、神学校を出た聖書のスペシャリストである、牧師に対して信徒は献金をして養う義務がありますし、教会堂や、教会敷地内の財産を持っているために、宗教法人法により、税金は免れますが、それらの財産の建築費や維持・修繕費用は自分達で捻出しなければなりません。そのほとんどは、その教会の信徒の献金でまかなわれているのです。
ある人は、バブテスマを受けて教会員になろうとした時に、牧師から、教会員になったら収入の十分の一を指定献金として毎月教会に納めなければならないと聴いて、それでは自分自身の生活が成り立たなくなると思い、バブテスマを受けることを断念したと言います。そして、教会員には、裕福な人以外なれないと思ったそうです。生活費がかつかつの人は、税金を納めた外に献金ですから、相当厳しい生活を強いられるはずです。
教会そのものは、宗教法人法により、税金はかかりませんが。不動産税、献金にも課税されないようです。私達信徒は献金しても、その分は税金の控除の対象にはなりません。
まるまる出し損です。出したことが別の形で返って来るのなら、決して損とは思わないで済むのでしょうが。感謝して献金しましょうと言われますが。、実質はほとんど義務ですね。
この場合は、事前に話されたので、まだ対処ができまししたが、教会によっては、バブテスマの終了後に初めてその話をされることも多く、それから教会員をやめますと言うのは、非常にまずい状況を招く(教会からの信用を失う)ので、バプテスマを受けたいと申し出る前に、教会員としての献金についてしっかり確認しておくことが必要です。
場合によっては、教会を替える必要があるでしょう。まだ教会員になる前であれば、別の教会に移るのは簡単です。
一度教会員になってから移籍するのは、転勤などのやむを得ない事情ならともかく、個人的な理由で移籍を希望しても、受け入れ先の教会が同じ教団だったりすると、信徒を獲った獲らないという、牧師同士のいさかいを嫌がって、移籍の受け入れを敬遠することもあります。
バプテスマを受けたいと告白する前は、来会者としてのお客様扱いですから、立場的には比較的気楽ですが、初めて行った日に、バプテスマまでの準備勉強会の工程表を渡して、そのクラスに入れてしまおうとする教会もありますから、注意が必要です。
そこまでしない教会の場合は、それほど責任を感じる場面はないと思いますが、教会員の人の色々な面を知るためには、できるだけ多くの集会に出てみると、一人一人の性格がよくわかります。
その時点で、この人とは絶対にそりが合わないと思う人がいたら、牧師はたとえその人が性格的に問題がある人だったとしても、信徒から給料をもらっている立場として、どうしても古くから教会に貢献してきた人をかばいますから、新教会員となるためには(なった後も当分の間は)、かなりの我慢が必要になります。
来会者の時には、教会員の人に気にくわない人がいても、その人に文句をつける立場にはありませんし、教会員になってからは、内部的にごたごたするのを避けるために、新人のうちは、少なくとも一年間は我慢をしなくてはいけませんよ。
うっかり、新人の身でその人の悪口でも言おうものなら、即刻直接本人に伝わってしまうことを、新人教会員のあなたはまだ知らないでしょうから。
どこにも移籍するのが難しい(精神的な理由も含めて)場合は、このようなネットチャーチを利用するのも、一つの方法です。
その場合は、そのネットチャーチの管理者の資質を見極めることが、非常に大切です。
このネットチャーチも、もし、あなたがおかしいと感じたなら、すぐに読むのをやめた方がいいでしょう。新しい考え方に接して混乱するよりは、今まで築いてきた体験の中に安住する方が、本人の精神的健康のためにはいいからです。
それを覚悟で、何が本当に真実なのか見極めたいという人は、読み続けてもいいでしょう。そういう人は、このネットチャーチ【光】に招かれている人です。
しかし、そういう人が、真にイエスさまに招かれている人なのかどうかは、イエスさまにしかわからないことですから、このネットチャーチこそが真実を語っているなどと、我田引水はしません。間違いがあるかもしれません。
最終的にネットチャーチにつながることになったとしても、一定の期間は、教会員にならないように(バブテスマを受けたいとか、教会の一員になりたいと告白しない)で、教会に出席することも大切かもしれません。バーチャルではない教会に出席してみることで、現実の教会の実態を肌で感じることができると思います。私自身もそうですが、2年間20箇所以上の教会でそういう体験をしてきました。
もちろん、よいことばかりではなく、教会内でいやな体験をする可能性も決して低くはないのですが、それも後から見れば、反面教師としてのよい体験になります。
しかし、いたずらに教会を批判することは、自分自身の心を荒廃させることにつながりますから、自重した方がよいと思います(自分自身の失敗の体験から話しています)。
駄目なところに対して悪口を言うよりは、自分を生かせる場所を見つけることの方がはるかに大切です。
イエスさまも、「探しなさい、そうすれば見つかります。」と言っています。
けれども、これは見つかるまで、探すことをやめてはならないということであって、簡単に妥協したり、諦めてしまっては、本当に求めているものは与えられないということです。
何事でも、楽して成果は得られないものです。必要な努力は成果が出るまで、辛抱強く続けることが大切です。
近くの教会は通うのには楽ですが、遠くても通う価値の高い教会もあります。
では、早速聖餐式を執り行います。
お手元に、パンと赤ぶどう酒(又は赤いぶどう液かトマトジュースや、赤い野菜ジュースでもかまいません。)要はイエスさまの血を連想させるものであればよいのです。たまたま、このときは、ぶどう酒を飲む習慣があったので、イエスさまはそれを使ったのにすぎません。
【聖書の記述から】
また、彼ら(12弟子)が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子達に与えて言われた。
「取って食べなさい。これはわたしのからだ
です。」
イエスさまの体である、パンを食べてください。
また、杯を取り、感謝を捧げてのち、こう言って彼らにお与えになった。
「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために(ここで。、すべての人にと言っていないことは、残念ながらすべての人が救われるのではないという預言になっています)流されるものです。」
イエスさまの流された血である、ぶどう酒を飲んでください。
以上で、ネットチャーチ【光】の聖餐式は終了です。
礼拝は、毎日行うべきで、24時間、起きているときにも、眠っているときにも私達は礼拝を行うことができます。
日曜日だけに教会に集まって礼拝式を行うのは、組織になると、色々な立場の人がいるので、毎日礼拝をするのが物理的に不可能だからです。しかし、早天祈祷会をして、毎日イエスさまに祈りを捧げている教会もたくさんあります。
死んだ後は、聖書の黙示録にあるように、あの世で毎日礼拝しているのでしょうか。
この世の礼拝と同じようなものなら、飽きてしまいそうですが。
かなり不謹慎なことを言っているかもしれません。
では、今日の聖書の箇所に入ります。
地の塩
塩は色々な働きをします。
一見砂糖の方が、美味しさという点では優っているようにも思えますが、塩の方がはるかに優っている点もたくさんあります。
まず、虫歯の原因になりません。むしろ歯茎を引き締めてくれます。
そのほか塩の効用は、数えきれないほどたくさんあります。夏場で、塩漬けにした魚は腐りにくくなります。
塩が塩のような色と形をしていても、その成分が失われてしまっていたとしたら、塩の役割は果たせません。
イエスの言葉は、ここでは実りのあるクリスチャンになれと言っているように聴こえます。
清潔な服装で、礼拝を守り、きちんと献金もし、その他のもろもろの規則にも落ち度がない社会から良いイメージを持たれるようなクリスチャンもいますが、ここでは、外見よりも、イエスはむしろクリスチャンの内面的なことを言っているような気がします。
イエスがクリスチャンに命じたことは、
「神を愛しなさい。それと同じように隣人を愛しなさい。」という2つのことだけです。
これを完璧に守れれば、すべての違反に関する律法を守って、さらにそれ以上のことをしたことになると言っています。
イエスが言っているように、「愛は、多くの罪を覆(おお)う」からです。
イエスが安息日の律法を犯してまで、病人を癒したのは、愛によるものでした。
しかし、律法主義にとらわれていたユダヤ人指導者達には、そのことが許せなかったのです。自分達の権威が地に落ちてしまうからです。
門限の時間を決めるのは、その家の子供を危険から守るという気持ちもあると思いますが、子供が交通事故を起こしたのに、門限の時間の方を重視して(あるいは親に怒られるのを恐がって)、門限に遅れるからと怪我した人を放っておいたまま家に向かったとしたら、門限という【規則】は守れても、轢き逃げという、より大きな間違いである【犯罪】を犯すことになります。
数年前の事件ですが、大人の男と遊んでいて、門限に遅れ、親に怒られるのを恐れて、無実の人達を巻き込んで冤罪を作り、自分は親に怒られるのを逃れた少女もいました。
裁判では、女性の裁判官が有罪を宣言しましたが、その後、冤罪を主張して被告人の家族が、色々な矛盾点を指摘し、訴えた少女の供述も二転三転したにもかかわらず、判決は覆えらず、被告人達は、職場を解雇され、懲役刑に服しました。
女性差別が問題視される中で、男性冤罪の痴漢被害も増えています。
女性は弱いもの、性的な事件については100%男性側の発言は信頼できないという先入観が、その女性裁判官にはあったのかもしれません。
嘘をつくことに、男女間での優劣関係はありません。どちらも嘘をつきます。
日本が、確かにまだまだ男性優位社会であることは認めますが、先入観のない公平な判断が、社会のすべての局面で求められていると思います。
話は聖書に戻りますが、
イエスが、「あなた方は、ぶよはこすが、らくだは飲み込んでいる。」と言ったのは、律法学者達の間違いを痛烈に批判した言葉です。
そこには、規則を守る律儀さはあっても、相手に対する愛のかけらさえもないからです。
「あなたがたは、世の光です。」
やはりイエスが、自分を主としてあがめると告白した人々(クリスチャン)に向かって発した言葉ですが、自分にこの言葉を当てはめてみて、「その通りです。私は確かに世の光です。」と言えるクリスチャンは、果たして何人いるでしょうか。
「いえ、いえ、わたしなんか世の光どころか、ろうそくの灯りの値打ちもありません。」と、多くのクリスチャンはしり込みするのではないでしょうか。
そこで、いつも救いになるのが、「そのままのあなたでいいんです。神さまが、イエスさまを、人の罪の身代わりの犠牲にしたのは、人間がどうにもこうにもしようもない存在だと、人間の自力更正に期待するのをあきらめたからです。それでも何とかして私達罪人であるどうしようもない人間を救おうと、無い知恵(おっと、失礼。神さまはあり余る知恵を持っている全知全能な方でしたね)を絞った末に、出した結論は、わが子を身代わりにしても私達を罪から救いだそうという、信じがたい愛情のためでした。だから、あなたは今のあなたのままでも、イエスさまの犠牲のゆえに神さまに受け入れられているのです。」という牧師の言葉です。
自己否定から出発して、自力で向上しようとするのは立派なことですが、誰にでもできることではありません。
駄目な自分を否定することを、一旦やめて受け入れることも必要です。
クリスチャンだから、今の自分より立派な人間にならなければと自力で頑張るのは、ストレスになります。純粋に自分のために頑張るだけでも、なかなか思うようにならず、ストレスと挫折感を味わうことが多いのに、ましてや他人の目を気にする、虚栄心をモチベーションとして頑張り続けるなら、本人はそのことに気がついていないでやっていたとしても、そのストレスは何倍にも膨れ上がってしまい、やがて、それはいびつな形になって周りの人への干渉や、批判や、攻撃として吐き出されていきます。クリスチャンとしての形に捕らわれた結果です。
本物のクリスチャンの心は、外側に現れて来ますが、形が整っているから、中身も正しいとは限りません。
逆もまた、真ならずです
もっとも、最初から、自堕落でいいのだと開き直っている確信犯の人は別ですが。
しかし、そういう人でさえ、神が人間に自由意思を与えている以上、どのように生きるかは、神からその人に任されてのです。
ジョークの話になっていますが、「からす、なぜ鳴くの。からすの勝手でしょ。」という、かつて流行した言葉は、つきつめて言えば、まさに人間の自由意思は、神も止めないということを示したひとつの例だと思います。
だからと言って、必ずしも表面的には因果応報という結果に終わらないところが、この世の難しい所で、それは人を誘惑する悪魔がいるからで、またその悪魔のいうことに賛同する人も数多くいるからです。
神がいるのなら、どうしてこんなことがという言葉がよく言われるのは、この世的なスパンでは、必ずしも因果応報の法則は当てはまりません。
それは、神が直接人間の作り出した、幸、不幸に立ち入って自ら矯正したりはしないからです。
人は困ったことに出会うと、他力本願になり、なぜ神はこんなに不幸にな目に会っているのに、わたしを助けないのかと言いますが、ご利益にしても、不幸からの脱出にしても、自分が何もしないで、神が勝手に助けてくれることは決してありません。
「天は自ら(人を)助けるものを、助ける。」のです。
神は自分のことにしか関心がない人を助けもしなければ、罰することもしません。
それこそ、本人の自由意思を尊重しているのです。なぜなら、人間をそういうものとして神に似せて創造したからです。
とすると、自らを向上させていくためには、人間が、自ら自分の自由意思を律しなければならないということになります。
それについては、日蓮の言葉にふさわしいものがあります。
「(自分が自分の)心の師とはなっても(自分の心の支配者になるべきで)、(自分の)心を師とせざれ(自分の心に振り回されるな)」というものです。
自由意思を野放しにすれば、手のつけられない無法者になるからです。
キリストに従うということは、決して簡単なことではありません。
世の中には、魅力的な誘惑がたくさんあります。悪魔が怖い姿で現れたら、みな逃げるでしょうが、悪魔はどんなものにでも化けられます。聖書では、み使い(天使)にさえ化けると言われていますが、同じクリスチャン仲間にも、牧師にも、偽キリストにも化けます。
また、多くの世の中にあり、魅力的な価値あるものとされているものにも化けて、私達を誘惑してきます。これに抗うことは至難の技です。
ただひとつできる方法は、そういう危ない所(教会や神学校等のキリスト教施設を含む。一説には、神学校は悪魔の巣窟だとさえ言われているほどです。悪魔は神に近づこうとするものほど、激しく妨害にかかるからです。神の側に多くの人がついては、自分の活躍場所がなくなるからです。)には、近づかないことです。
世の中には、ありとあらゆる魅力的な誘惑が溢れています。私達は、否応なしにそれらの人や物と同居せざるを得ません。
だから、危険エリアには近づかないのが一番懸命なのです。ミイラ取りがミイラにならないためにも。
「君子危うきに近よらず」です。
このあと、イエスの話は律法の中に深く入り込んでいきます。
形の上で法律(語句の変換が面倒なので、以下、律法を法律と書きます。)を守っていても、心に思っただけで、実行しなくても同罪
だというところです。
ここが、社会の法律とイエスの罪認識の根本的に違うところです。イエスの倫理基準は、世の法律よりもはるかに厳しいのです。
だから、一般社会人は、
「キリスト教って色々厳しい制限があって、縛られるからいやだ。」と言って、敬遠しているのでしょう。
それは、喫煙の禁止という、聖書には記述がなく、キリスト教の指導者が作った規則もありますが、本質的には、罪とはイエスから見れば、行為に及んでいなくても、心に思った時点で、すでに罪を犯したのと同じことであるという、厳しい倫理基準があるからです。
「罪とは、的はずれなこと」という言葉は、既成の牧師がよく言う言葉ですが、そう言っている牧師自身の言葉が、本人は気がついていなくても、的はずれになっていることはよくあります。
それは、聖書の言葉に頼りっきりで、よく自分で考えないで、何でもそれに当てはめてしまうからです。
聖書読みの聖書知らずというか、
聖書の知識はあり余るほどあっても、キリスト教関係以外の本をほとんど読まない牧師は、この過ちを犯します。
「学びて思わざればすなわち罔(くら)し。思いて学ばざればすなわち殆(あや)うし」
これは、論語の言葉ですが、聖書の言葉を一字一句間違いのない神の言葉という福音派の考え方に洗脳されてしまっている人は、自分の頭で聖書を検証しようとはしないので、他の本を読まないか、読んでも全部聖書の言葉に当てはめて考えてしまいます。
また、世間の常識や現代科学が万能だと信じている人は、その知識をもって聖書全体を否定しにかかります。
そのどちらもが、正しくない態度です。
正しい道は、その中間にあります。
ただし、非常に苦労を伴う道です。
面倒なことの嫌いな人は、既成のキリスト教を受け入れた方が、楽な信仰生活を送れるでしょう。
私は、お勧めする立場にはいませんが。