イエスの言行研究会 マタイ第5章の5

今日はマタイの5章33節~37節です。

誓いについてのイエスの言葉です。

旧約聖書時代のユダヤ社会では、「誓いを立てたら、それを主に果たせ」という戒めがありました。

士師時代の、士師の一人であったエフタは、異民族との戦いに勝利させて下さいと、イスラエルの信奉する神に願いました。

そして、もし願いが叶えられたら、帰ってきた時に、最初に家から迎えに出てきた者を燔祭としてヤーウェに捧げると誓いました。

その結果、エフタは戦争に勝利し、家に帰って来ましたが、その時エフタを迎えに家から出てきたのは、なんと彼のただ一人の娘でした。

ヤーウェに誓ったことは、必ず果たさなければなりません。娘はその事を受け入れました。
当時としては、悲惨な出来事であっても実行しなければならないことでした。

その結果、一人娘は、2ヶ月間処女のままで死ななければならないことを友人と共に泣き悲しんで、その後火炙りにされて、戦争の勝利の犠牲としてヤーウェの神に捧げられました。

戦争の勝利と引き換えに、人の命を捧げるというのは、現代人にはとても理解できないことですが、つい73年前の太平洋戦争でも、特攻隊という人間の命を犠牲にしても、戦いに勝とうとする精神は生きていました。

日照り続きで雨が降らないと、農作物が全滅してしまうので、それを神の怒りととらえた昔の人達は、人柱を立てて神の怒りを鎮めようとしたりしていた、野蛮な時代もあったのです。

何千年も前の、イスラエルと同じです。

この事が、実際にあった事実なら、イスラエルの神とは、何と残酷な神だろうと思うのですが、よく考えてみれば、イスラエルの戒めは、誓ったことは果たせということであり、どのような誓いを立てるかは、人間に任されているのであって、神が残酷な行為を認めたということでは決してないと思います。

戦争の勝利に取り憑かれたために、そのような誓いを立てた、人間に問題があるのです。

これが事実でも、作り話でも、聖書に記述されている以上、悲しい話ではあっても、これは神の前に正しい行為として、ユダヤ社会の中で受け入れられてきたのです。

特攻隊が、戦時の日本で受け入れられたように。

そのような日本に対して、原爆が2発、米軍によって投下されました。

それが、どれだけの被害をもたらし、放射能の後遺症のために、生き残った人の多くが、癌を発症して死んでいったかことか。

それに比べれれば、、このまま戦争を続ければ、日本人が全滅してしまうと思い、そのことを防ぐために、戦争の早期終結を図るための手段であったというのが米国の言い分だったのですが、戦争という状況を利用しての、原子爆弾の破壊力の人体実験ではなかったかという疑いは、拭いきれないと思います。

米国内にも、原爆投下には反対する意見があったのですから。

しかし、原爆投下は実行に移されました。

日本人がどうとか、米国人がどうとかいう国対国という構図で考えるのではなく、人間の行動としてどうなのかという、地球人としての認識の範疇の中で、もはやグロバールな視点で考える時代に入ってきているのではないでしょうか。

確かに日本には、恥の文化を重んじる風習があり、捕虜になって生き恥を晒すくらいなら、自害せよという、武士の時代の精神がその時代にも生きていました。

「咲いた花なら
散るのは覚悟、
見事散りましょ
国のため」

戦時の「同期の桜」という唄ですが、その作られた歌詞に、特攻隊のことを重ね合わせると、耐えられない気持ちになります。決して散る際にも美しい桜に例えるべきことではないと思います。

桜が散るのは自然現象ですが、特攻隊は自らの意思とは別に、当時の日本軍司令部によって自爆を強要された行為です。

つまり、現代のISと同じ立場です。死んだら天国へ行けるという甘言を使って、誤った思想を若者に吹き込んでいるのです。

神とされた天皇のために命をかけた特攻隊の生き残った人々は、戦後に天皇が、私は神ではなく、人間であると宣言をしたという事実を知って、墓の下で眠っている仲間にどんな思いを持ったのでしょうか。それは国の政治家の墓参りの参拝ぐらいで許されることなのでしょうか。

一方で、戦功のあった英霊を称えるという主旨で、戦士者が祀られている靖国神社の問題は複雑で、一言で靖国参拝を断罪することはできませんが、騙されて死んでいった特攻隊を初めとする日本人の魂を慰めるために、私達がするべきことの中で一番大切なことは、平和を実現する努力を継続していくことしかないと思います。

エスによって顕された神の意思は、自ら平和を壊すことはしませんが、人間が平和を壊す行為を自らは止めることをしないことを前提に、人間に自由意思を与えたのですから、キリスト教徒は、人間の罪に対する神の罰という言い方をしますが、天に向かって吐いた唾が自分に降りかかってくるというのが、本当のところでしょう。

神が罰を与えるのではなく、人間自らの罪のために自滅するのです。

だから、それに抗う人間の平和に向けた努力が大切なのです。神はそういう人には力を与えます。

しかし、悪魔も悪人に力を与えますから、最終的には力の勝負になります。

正義が力を持たなければなりません。

しかし、正義の名の元に不当な力による支配が行われているのが現実です。

正義は力を持たなければなりませんが、力そのものが正義ではありません。