イエスの言行研究会 マタイ第6章の1

今日のテーマは、
【施しをするときには、人に見せるためにしないように】です。

今日のテーマの分かりやすい例として、世間でも、売名行為だと言われるケースがよくあります。その行為が売名のためなのかどうかは、本人が一番よく知っていることです。

しかし、例えそうであっても、本人は、「これは売名のためやっている。」などとは、絶対に口が避けても云いません。

ただ他人は、それは売名行為だと批判するだけです。

しかし、売名行為が必要な世界もあります。

名前を知ってもらうことが、自分の生活に直結する場合です。

売名というと、悪いイメージに響く言葉ですが、政治家や芸能人にとっては、名前を売ることは必要です。

問題なのは、その動機が不純であったり、本来の目的外のためにやることです。

実例を上げると、内心は利己主義のかたまりの政治家であっても、自分のイメージアップを図るために、慈善事業に寄付したり、事務的に災害地に行ったりすることなどがそれに当たります。

票につながる団体への援助は、有権者との露骨な癒着を表しています。

利己主義のかたまりで、そんな人の評判のことなどは考えない人もいるでしょうが、裏で悪いことをしていても、それを隠蔽して、クリスチャンであっても、表向きは人のためにいいことをしているふりをする人のことを、聖書のこのところでは言っているのだと思います。

いわゆる偽善者のクリスチャンです。

徹底した利己主義者は、そもそも博愛の精神を掲げている教会などには、近づかないものですから。

そんな人にとっては、献金することなどは、自己の財産を奪われるとんでもない行為でしょう。

しかし、わたしたちのように、多少なりとも信仰ということに関心や関わりを持っている者にとっては、この問題に無関心ではいられないでしょう。

個人的な良心の問題に関わって来ますから。

本人が、自分のクリスチャンとしてのイメージアップのためにしているなら、その動機ゆえにイエスから見て、非難の対象になります。

ただし、同じクリスチャンに批判されるかというと、クリスチャンは人の悪口を言ってはいけないと言われていますから、クリスチャンがその教えを守るならば、同じクリスチャンからの批判は免れます。

クリスチャン同士で批判し合うことは、キリスト教界の中ではよくあることですが、キリスト教という世界の中で、悪に対して自分がクリスチャンとしてどういう行動を取るべきかについては、慎重に判断するべきことでしょう。

「蛇のようにかしこく、鳩のようにすなおに」
という、実行するのがなかなか難しいことをイエスさまは私達に要求しています。

ただ、批判というのではなく、悪徳教会の内情の事実を知らせて警鐘を鳴らしておくことは、その世界を知らない人の中で、特にこれからその世界に入って行こうとしている人にとっては、是非とも知らせておくべきことだと思います。

本人が知らないでいたために、今までも入った人が被害を受けた現実がありますから。

また、違う局面からの話ですが、本人にはその気がなくても、教団内のイメージアップのために、広告塔として利用される場合もあります。

カトリックには、多くの聖人と称された人々が存在します。最近ではマザー・テレサもその一人です。

また、ある教会に行った時に、すざまじい迫力で驚嘆するような祈りをする老婦人がいました。

牧師は、「うちには(「この教会には」でも、かなり内向きな表現ですが、【うち】と言うとさらに内向きというか、ほとんど私物化しているような表現です)には、このような信徒がいるのです❗」と私に言いましたが、確かに私も凄い信徒だと思いましたが、この牧師は、その素晴らしい信徒を自慢することが、神様から見て、自分自身の誉れになると思って話しているのだろうかといぶかしく思いました。

自分が、その教会の牧師をしているから自慢したくなったのでしょうが、それはその人自身の誉れではあっても、牧師の誉れではないと思いました。広告塔にしたかったのかもしれませんが、厳しいことを言いますが、牧師という仕事をしている以上、本人がするべきことは、信徒じまんではなくて、自分自身が神と人から誉れを受けられような存在になることだと自覚してほしいと思います。

それが感じられなかったので、その時にその教会員になるように勧められましたが、断りました。

いくら素晴らしい広告塔がいても、肝心の牧師がそんな人なら、この教会には入りたくないと思たからです。

またその牧師は、「イエスさまは情欲を持って女性をみたことがないのだろうか? そうであった方が、イエスさまが自分に身近な存在に感じられるのだが。」と、私を驚かせるような発言もしました。

裏で姦淫をしながら、表向きは清廉潔白と思わせるような言動をしている牧師は、警察に捕まるような事はなくても、すでに信仰的には神様の目からは確信犯の罪人扱いで、信仰者としては完全に失格ですが、この牧師の発言も相当に問題発言であり、わたしは、この発言で、この牧師に対する信頼をなくしました。

しかし、人間は過ちを冒す者ですから、イエスさまが、人の過ちについて、7度を70倍するまで相手を許しなさいとおっしゃっているのですから、間違いを侵した相手も許さなければならないでしょう。

私自身の過ちも、かみさまと人から許してもらわなければならないのですから。