イエスの言行研究会 マタイ第4章

エスが40日40夜断食した後で、サタンが近づいてきて、イエスを試みました。

1 空腹のイエスに対して、「神の子なら、この石をパンに変えなさい。」

2 「あなたが神の子なら、神殿の頂きから下に身を投げてみなさい。『神はみ使い達に命じて、あなたが石に打ちつけられないようにする』と書いてあるから。」

3 「もし、ひれ伏して私を拝むなら、全世界を支配する権威をあなたに差し上げましょう。」

以上の3つが、悪魔からイエスへの誘惑です。

まず1番目の誘惑について。

人は本能的な誘惑には、極めて弱いものです。性的な誘惑(他人からのものだけでなく、自分自身の内側から突き動かす性衝動)に、完全に打ち勝てる人は、おそらく一人もいないと思います。

ダイエットに失敗する人が多いのも、食欲という本能が、いかに強いものかということを示しているのではないでしょうか。

旧約聖書の創世記にも、空腹のあまり、パンとレンズ豆と交換に、長子の権利を弟のヤコブに売り渡してしまったエサウの話が載っています。

断食後の空腹時に、石をパンに変えることなど、イエスにとっては朝飯前のことだったろうと思われます。

ここで重要なのは、イエスが、単に空腹時に食べることを我慢したという事実ではありません。人間は空腹時には食べるべきです。
我慢する必要はないと思います。むしろ空腹時に食べ物がなかったら、そのことの方が大きな問題です。

余談になりますが、キリスト教徒も、イスラム教徒も同じように断食をします。しかし、断食後の制限はないので、かえってその後に食べ過ぎて太ってしまう人もいるといいます。

日曜日に半日断食して、食べ物のない人達のことに思いを馳せる時間を持ち、その分を献金すると決めている教会もあるようですが、あくまでも各クリスチャンの自主性に任せるべきで、教会単位で決める規則ではないのではないでしょうか。

指導者の独断専行は、よいリーダーシップではありません。独断先行するだけなら本人の自由ですが、リーダーが教会をまきこんで規則化するのには閉口します。こんな教会は行くのをやめてしまった方が、クリスチャン本人のためではないでしょうか。

イスラム教のラマダーンの場合は、儀式になっているので、遵守しなければいけない戒律になっています。そのため、イスラム教国では、ラマダーンの1ヶ月間は、昼間は断食して居るので、食品を扱う店は昼間はお客さんが来ないので、閉店して夜間営業のみになっている店が多いです。

しかしトルコは、東洋と西洋の境目に位置しているので、西洋のキリスト教の影響を受けていて、それほどイスラム教の戒律に厳しく縛られてはいない国です。

さて、本題に戻ります。

1で重要なのは、これが悪魔の誘惑だったという事実です。悪魔の誘惑に従えば、悪魔の仲間になります。イエスが「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。」と、聖書の別の箇所からの神の言葉を引用して、悪魔の誘惑を退けたのはさすがだと思います。

ここで大切なのは、イエスはパンは生きるために必要ではないとは言っていないということです。パンも神の言葉も同じように大切だと言っているのです。

パン(食べ物)は、身体を養うのに必要であり、神の言葉は人間の霊的(精神、心)な領域を成長させるために必要であるということです。

さらにここで重要なのは、宗教的な偏りへの警鐘です。魂の救いのためなら、身体はどうなってもいいというような極論を唱える人がいますが、イエスはここでそういうことは言っていません。

食べ物のことに限らず、信徒に極端に厳しいことを科す指導者は、熱心なのではなく狂信者であり独裁者であると思います。つまり偽キリスト教徒(キリストのふりをした悪魔)であるということを見破らなければいけないのです。

熱心と狂信は、一見見た目は似ていますが、その行き着く先は、全く別の場所です。

筆者がかつて行った教会で、日曜日は礼拝を第一にして、用事は第二番目以降にするようにと言われましたが、こちらにしてみれば、正直なところ余計なお世話だと思いました。

神に仕えることが大切なことはよく知っていますし、礼拝がその一つの形であることも知っていますが、教会の礼拝を第一にせよというのなら、その礼拝内容が実質的に、本当に、他の用事をすることよりも大切なものになっているのかどうかということの検証が牧会者には必要だろうと思うのです。

もし、信徒が礼拝出席よりも、他の用事を第一にしているとしたら、それを信徒の不信仰のためと決めつける前に、正しい指導者なら、逆にその教会の礼拝が、信徒から、他の用事をするよりも実質的に大切なものと思われるようなものになっているかどうかが問われているのだと思うべきなのです。

しかし、ほとんどそう思ってないし、信徒の義務不履行にしたほうが楽なので、全て信徒責任にしてしまいます。

礼拝出席を第一にするかどうかは、本人に任せるべきであるのは、信徒の自主性を重んじるべきです。たとえ責任のある教会員であろうと、彼に対して、礼拝出席を他の用事よりも優先せよと命じるのは、その礼拝がそれだけの価値があるものになっているかどうかを決めるのは信徒自身であるのですから、決して牧師が信徒に対して命じるべきことではないと思うのです。

こんなことを信徒に言うような、教会には行かない方が良いでしょう。

神様の命令だからと、こちらの信仰心に漬け込んで縛りにかかる行為だと思います。

神のためであり、クリスチャンとしての当然の責任だと言いますが、キリスト教は人を自由にする宗教であり、人の自由意思を縛りつけるものではありません。

神でさえ、人間が善悪どちらを選ぶかを、本人に任せているのですから、人が人に余計な指示や命令をするのは、個人の人権の尊厳を無視した指導者(良い牧師ならそんなことはしない)の越権行為だと思います。

エスさまは、自分以外を師と読んではいけないとおっしゃいましたが、神父とか牧師とか、おそれ多い役職名で呼ばれているのが通例です。先生とも呼ばれます。

多分、よっぽど偉い存在だと自分でも思い、周りの人も先生と言って持ち上げますから、自然にそうなってしまうのでしょう。

現代では、神学校を出ないと教役者にはなれない時代になりましたから。

エスの12弟子は、みな無学な人でしたが、今のイエスさまの代わりに説教している人は、みな学者のようです。

指導者といいますが、誰があなた(牧師)をわたし(信徒)の指導者にしたのでしょうか。

神学校を出て資格を取ると、職業として成り立ちます。公務員や教師と同じように月給で生活しています。

違うのは、月給の原資が、税金か献金かという違いだけです。

信徒がいなければ、神父や牧師という仕事は職業として成り立ちません。

神父や牧師は、信徒をリードしていく立場のようですが、信徒に養われている身です。神様のためという言葉が、全てのことについて、信徒を黙らせてしまうのでしょう。

神父や牧師は、神学校に行って資格を得て、より上位の人(神学校の中で按手礼の資格のある人)から、神の使いとしての按手礼を受けた神から遣わされたものであると言うのでしょうが、本当に神から遣わされたのはイエス・キリストを初めとする限られた人達だけであり、神学校を卒業しただけでは、たとえ按手礼を受けていても、人の作った組織を通過して、信徒総会で招聘された教会で働いているだけで、真にイエス・キリストによって遣わされた者かどうかは、その後の言行がイエスの言葉と合っているかどうかということが、信徒によって常に検証されなければならないでしょうし、そういう神父や牧師を含まない、信徒だけで作る信徒会という組織も必要でしょう。

年一回の総会がそれに当たると言われるかもしれませんが、普段の礼拝や集会の中で、すでに牧師に信徒が洗脳されてしまっているようなら、完全にアウトです。もうなす術はありません。牧師の言いなりです。こっちが金で支えているのだから、言いたいことを言っていいのです。

神様の名を出されたからと言って、信心深さを強要されて、黙る必要はないのです。

神様への献金という指導者の言葉が、真摯な信徒にとっては、言いたい心に縛りをかけられます。

「わたしは、あなた(牧師)の命令を守るために、この教会に来たのではない。この教会(の礼拝)にくること=イエスに従うことであるという条件が礼拝内で満たされている時にのみ来るだけである。」と言いたいところですが、なかなかそこまで言う勇気のある人はいないでしょう。

教会も、社会にある組織の一つに過ぎないのですから。

色々な人がいて当然なのです。

教会員の資格を停止すると言われたら、大いに喜べば良いのてす。余計な献金の心配をしなくてもよくなるし、貯金をする余裕もできます。献金は天に宝を積む行為と言われて奨励(半ば強要)されていますが、実際は全て人のために使われるのです。

神にとって、金なんかは必要ないものですから。

「資格は停止だが、献金は神様への義務だからしなさい。」、と言われたら、そんな教会はやめればいい。

税金と違って、滞納として請求書が家にまで送られて来ることはまずありません。差し押さえもできない。個人に権利のある財産ですから。

私が、教会に通うのをやめて、このブログを立ち上げた理由は、イエスの言行が信仰の対象の全てであると思ったことに起因しているのが根本的な理由ですが、教会という人間が作り上げた組織に対するさまざまな疑問があったことも、大きな理由の一つです。ここまでの記述を見ていただいて、その理由の一端がわかっていただけたかと思います。

次に、2について見ていきます。

これは、よくパフォーマンス好きな人を戒める例として挙げられます。さまざまな奇跡を行い、神の人としてマスコミにもてはやされ、本人もその気になり、有名になることが最終目的の人のことです。

エスは、奇跡を行っても、人には話さないようにと、よく本人に戒めていました。人気者や有名人になることが目的ではなかったからです。

そのようなイエスに対して、このような誘惑を持ちかけることは、無駄です。悪魔にそのような力を見せつけても何の益にもならないからです。しかし、信徒の場合は、うっかり悪魔の手に引っかけられて、その言葉に従えば、信徒は地面に叩きつけられて死ぬことになります。こういうのは、盲信と言います。

悪魔は、イエスの英雄心をくすぐることに失敗しました。当然です。イエスは神の子であって、ユダヤ人の英雄になる気など、さらさらなかったからです。

次に3を見てみましょう。

これは、人にとっては魅力的な誘惑だろと思います。この世の中で自分の思い通りにならないことはなくなるのです。こんな魅力的なことはないでしょう。人なら誰でも魅入られてしまいそうです。

小説にも、自分の欲しいものを手に入れるために悪魔に魂を売った男の話がありました。

藤子不二雄の「笑うセールスマン」も、一つだけですが、自分の願う幸せを叶えてくれる話です。しかし、皆、欲望の度を越してしまったあげく、不幸になって行きます。

宝くじの高額当選者で、生活破綻者になる人は、実に7割に及ぶそうです。

ここでは、イエスは「神にだけ仕えよ。」と旧約聖書の言葉を使って、悪魔の誘惑を退けますが、別の箇所では、「人は全世界を手に入れたとしても、まことの命を損じたら、何のよいところがあろうか。」と言っています。

世間では、何事もほどほどにと言い、仏教では中道を説きます。しかし人間の欲望には限りがなく、飽くなき追究心が、一つのことに集中するあまり、他のことを顧みなくなり、その事が自分自身や、周囲の人々の不幸をも生みだしています。

この後、バプテスマのヨハネが、ヘロデ・アンティパス(2代目)に捕らえられたと聞いて、イエスガリラヤへ退きました。

自分も危ないと思ったためでしょうか。

一時、ユダヤ人指導者達に殺されそうになった時に、捕らえられないようにした時には、まだ、時が来ていなかったからだと記述されています。

ヘロデに捕まって殺されることは、イエスの本意ではなかったのでしょう。

エスは、過ぎ越しの子羊として、その役割を果たすためにこの世に来たのです。

エスの言葉を聴くと、確かに罪の許しの象徴として、自分の身体を砕いて、血を流すことに言及しています。

罪の許しのための犠牲は、出エジプト以来のユダヤ教の伝統であり、ユダヤ人達はそれとは気づかずに、自分達の伝統に従って、イエスを偽キリストとして十字架で殺しました。

しかし、神の側から見れば、それは人間の罪ための過ぎ越しの犠牲と見なされたのです。

それが、全世界の人々を赦すために、神がとった方法です。

これが、キリスト教の贖罪説です。

生前にキリスト自身がそう言っていたのだから、間違いないでしょう。この言葉が福音記者の捏造でないならばですが。

キリストの十字架が人間の贖罪のためであるという思想が、神の真意なのか、十字架刑という事実に基づいて、人間が意味づけをしたものなのかは、慎重に検証されるべきことでしょう。

特に、福音書の成立が、パウロの書簡よりも後に成立したことを考えると、福音書のイエスの言葉は、本当に本人の言ったものだけなのか、それとも、すでに蟻の這い出る隙間もないほどに詳細に造り上げられたパウロの神学の裏づけをするために、書かれた部分もあるのかは、どれを信じるかは各自の自由ですが、真実は不明であるというのが真実を言っていると思います。

偽典とされているユダ書には、ユダがイエスに自分をユダヤ人指導者達に売り渡すように頼んだという記述がありますが、イエスが人類の全ての罪を背負って犠牲になったということが真実なら、このような解釈も成り立つわけで、ユダは裏切り者どころか、キリストの贖罪の業の功労者であることになります。

しかし。福音書のイエスの言葉とされている、「人の子を裏切るような者は、生まれなかった方がよかったのです。」という言葉により、ユダ書は偽典とされました。

とすると、イエスを十字架に掛けて殺したユダヤ人達は、やはり神に対する裏切り者という立場であり、自分達のユダヤ教の世界から生まれたキリストを殺した、極悪人という位置づけになります。

しかし、イエスを信じる者にとっては、罪の過ぎ越しの救い主となるのです。

あくまでも、キリスト教の教えによればそうであるということであり、キリスト贖罪説が神の意思なのか、人間の考え出した素晴らしいねつ造なのかは、誰にもわかりません。

ユダヤ人の子孫が、自分達の先祖が殺した人存在が、真のキリストであると気づいた時、ユダヤ教キリスト教に組み込まれる運命にあります。

エスガリラヤ地方を中心に宣教したことは、イザヤ書の9章1~2節に預言の記述があります。

この時から、イエスの宣教が始まったとマタイの福音書には書いてあります。

その第一声は』「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」です。

この言葉は、すでにバプテスマのヨハネが言っていました。

彼の場合は、イエスの登場の預言であり、イエスの場合は、まさに今来ているという意味になるのでしょう。

ここで、急に話が飛びますが、長い間キリスト教の世界で問題になっていた同性愛の問題について言及しておきたいと思います。

さらに、話が飛躍しますが、同性愛は人間だけではなく、動物(哺乳類や魚類、昆虫など)の世界にも普通に見られる現象だといいます。

人間も動物も神が創造したとするキリスト教の教えに従って考えると、人間の同性愛が罪なら、動物の同性愛も神の命令に背いた行為であり、モーセの律法時代のユダヤ教の掟に従うならば、同性愛は罪なのだから、人間が死刑になったように、動物も殺されなければならなかったはずですが、その記述がなく、人間だけが死刑になったということが、旧約聖書が、神の書でありながらも、ユダヤ人の、ユダヤ人による、ユダヤ人という人間達のための書物でもあるのかなと思う処(ところ)です。

ちなみに、動物の同性愛には、交尾を伴うものと、精神的なものだけで、交尾は行わないものもあるそうです。

羊は動物の世界でも、もっとも同性愛の数が多い種だそうで、牝の獲得にあぶれた牡同士が仲良くなるケースが多いそうですが、牡同士での交尾はしない。同病相憐れむという訳でしょうか。

キリスト教世界では、同性愛についてもさまざまな見解があり、同性愛は罪ではない、同性愛の指向そのものを罪とする、恋愛感情を持ったら罪とする、性行為に及んだら罪とすると色々な見解に分かれています。

ダビデヨナタンの親密さは、性行為を伴ったものではなく、ヨナタンの父親のサウル王は、ダビデの命を狙っていた男であり、その中で育まれた二人の友情は、親密さは濃厚ですが、その感情は、友情とか同士愛に当たるもので、そこには恋愛感情のような記述は見られません。

ちなみに、聖書の中の同性愛と思われるような記述は、愛というカテゴリーには含まれない、強姦とか乱交とか買春とかいう形で記述されており、現代の人権主義に基づいた同性愛者の理解とは全く別物であることを、前提として知っていると、聖書の言葉をそのまま現代の市民の同性愛者に結びつける間違いは冒さないと思います。

キリスト教内で、その事に対する認識不足により、聖書の記述をただ字面の理解のみで、現代の人権主義の思想による同性愛への認識が欠けているために、ひとくくりに考えて罪と断定しているようです。

聖書の字句に拘るあまり、人権に対する考え方が遅れているというところが、キリスト教界全体に指摘されてしかるべきでないでしょうか。

閑話休題

さて、イエスはいよいよ弟子作りを始めます。

ガリラヤ湖のほとりで、漁師のシモン(ぺテロ)とアンデレの兄弟を弟子にします。

なんでもない、そこいらへんにいる普通のおじさんです。このあとの9章でユダヤ人に嫌われ者となっている、ローマの手先と見なされていた取税人のマタイも弟子にします。

エスの弟子の人選はなりふり構いません。人の評判ということを気にしないからです。

十二弟子というと、いかにも偉い立派な人を想像しまが、実際には、そこいらへんにいる普通のおっちゃんです。

実際、イエスが十字架につけられて殺されそうとした時には、全員イエスを見捨てて逃げてしまいました。

ぺテロにいたっては、自分のことを周りの人にイエスの弟子だと言われた時には、三回ともそんな人は知らないと言い、三回目には、呪いを掛けてまで誓って知らないと言い放っています。


ぺテロとアンデレを弟子にした後、イエスガリラヤ全土を巡って、(ユダヤ教の)会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを癒されました。

この文章からわかることは、イエスは身体の病気だけでなく、精神的な病いや、悩みや悲しみの中にいる人々をも癒したことがわかります。

エスのうわさはシリア全体に広まり、ありとあらゆる病気の人達がイエスのもとに連れてこられ、彼らはみな癒されました。

こうして、大勢の群衆がイエスにつき従ったのでした。

何の地位もないイエスが、これだけ民衆の人気を得たのは、当時のユダヤ教指導者が、いかにも力のない、話すだけの説教者になり下がり、自分の贅沢ばかりに関心を持つ存在になっていたからです。

ですが、つき従った群衆も、本心は、ご利益信仰で集まっていたであろうことは、容易に推測できます。

その証拠に、イエスが十字架に掛けられるときには、群衆は自分達を苦しめてきたユダヤ人指導者層にひよったからです。

群衆というものの本質は、そういうものだから仕方がないと言えばそれまでですが、果たして自分が、その当時生きていたら、同じ行為をしなかったとは言えません。

これが、2,000年前に起こっただけの出来事だと思ってはいけないのです。

当時の時代に生きていたら、自分はどう行動しただろうかと考えてみるべきです。

女性の方が、よりイエスのことを理解し、勇気が会ったようにも見えます。

話は違いますが、現代では信徒の多い教会は献金という行為を、神の名のもとに半ば強要(義務づけ)によって、また指導者層はその牧会で、当時のユダヤ教の指導者層と同じことをしています。

真に正しいの指導者の出現が待ち望まれます。

以上が第4章の内容です。