イエスの言行研究会 マタイ第5章の4

マタイ5章の21節~32節

十戒の「殺してはならない」という戒律より、さらに厳しい倫理基準がここでもイエスによって語られています。

「人に対して腹を立てて、能なしとか、ばか者と言う者は、最高議会に引き渡されたり、地獄の燃える火の中に投げ込まれる。」と、会社や家庭でよく言われている言葉があげられています。

日常的に言われている、この言葉は確かによくありませんが、こんなことを言ったら、即裁判にかけられたり、地獄へ投げ入れられたりしたら、どれだけ多くの人が犯罪人として拘束されなければならないでしょう。

現代でも、パワハラ問題が表沙汰にされて、話題に上り、ニュースにも取り上げられるようになってきました。

一寸前までは、そんなこといちいち犯罪扱いしていたら、世の中犯罪人だらけになっていたでしょう。

それまでは、見過ごしにされていたことが、ハラスメントとして、犯罪として扱われるようになり、社会もやっとイエスさまの倫理基準に追いついてきたということでしょうか。

また、人に恨まれることの怖さにも話が及んでいます。

人に恨まれることの怖さは、皆さんもよく知っているでしょう。「触らぬ神に祟りなし」
というのは、字の間違いですが、人の不興を買うような余計なことを言うのは、自分の首を絞める結果を招きます。

だから、失敗したら平謝りするしかありません。相手が原因を作っているとしても、相手が悪い場合はまともな話は通じません。

その場合は、信頼できる第三者を通じて、注意を促してもらう方が賢明です。

クリスチャンといえども、この世に生きている存在に変わりはありません。まわりはノンクリスチャンだらけです。

意地悪な人も、頑固な人も、差別や偏見を持っている人もいる中で、私達は生きているのです。もっとやっかいなことには、クリスチャンも、イエスによって本当に変えられていない人は、聖書の基準で人を裁いたり、自分が神の代理人でもあるかのように、横暴に振る舞う人もいるのです。

「悪い者に逆らってはいけません。」というイエスの言葉は、世の中を生きていくためには役にたちます。

浅はかな正義感からの悪口は、何の役にも立たず、ただ言った人と言われた人を賎しめるだけです。

また、イエスは旧約時代にイスラエルで出来上がった戒律を次々に塗り替える言葉を発していきます。

「心に情欲を抱いたら、既に姦淫を犯したと同じことである。」

「右の目がつまづかせるなら、えぐって捨てなさい。」

「右の手がつまずきのもとなら、切って捨てなさい。」

「不貞以外の理由で妻を離縁するものは、妻に不倫の罪を犯させる。その妻と結婚する男も不倫を犯すことになる。」

とてもじゃないが、まともな神経では従えないことばかりです。

また、もしこの言葉をまともに信じたら、身体中のあらゆる器官を失わなければならないでしょう。

この場合、問題にされるべきは体の器官ではなく心なのです。

米国では、再犯の多い性犯罪者に対して、去勢手術を施すそうですが、それを人間がすることに反対する人々もいるそうです。

更正の見込みがなければ、新たな性犯罪の犠牲者を増やさないためには、犯罪者の権利もある程度制限されるのは仕方がないとは思います。

自分が性犯罪の当人なら、反対するでしょうが、性犯罪を繰り返す犯人の去勢による性犯罪防止の方が、当人の性能力を残しておくよりも優先されるべきことだと思います。外に方法がないのであれば。