イエスの言行研究会 マタイ第5章の1

今日はマタイの福音書の5章の1~12節を見ていきます。

有名な山上の垂訓と言われているところです。

いまさらそれか、と思われるクリスチャンの方も多いかもしれませんが、イエスの最初のまとまった説教なので、通りすぎないで見ていこうと思います。

まず7つの有名な言葉が書かれています。

1 心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだからです。

この言葉は最初はおかしな言葉だと思いました。心の貧しいということは、良くないと思っていたからです。訳語の問題もありますが、普通は心の豊かな人は良い人というイメージが社会的な常識ですから、初めてこの言葉に接した人は、奇異な感じを受けるものです。

エスの価値観は、社会の通常の価値観とは違いますし、真逆の場合が多いです。

この場合は、心の貧しい=貪欲ということではなく、謙虚と訳すとわかりやすくなります。要するに自己チューではない人のことを言っています。

他人に優しい人は、神の国を見る(心の中に神の国を持っている)というようなことなのでしょう。

2 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

これも、ちょっと見ると、何で悲しみが幸いなんだ。喜びの方がいいに決まってるだろうというのが、世間的な見方です。

「慰めなんか何の役に立つんだ。
同情するなら金をくれ。」というのが世人の本音かもしれません。

しかし、ここでイエスが言っている悲しむ人とは、神の御心に添(そ)った悲しみのことです。

よく「他人の痛みは3年でも、耐えられる」と言いますが、人は自分のことでは、悲しむことは簡単ですが、人のこととなると、なかなか自分に同じ体験がないと、真に同情するのは難しいものです。

ある人が、二人の人に職場で虐めを受けていました。1対2ですから、1対1よりもより分が悪い状態です。向こうはぐるですから、一緒になって虐めにかかってきます。

しかし、ある時、虐めを受けている人の父親が、癌にかかって入院しました。

その話が、職場で噂として広がると、虐めをしていた内の一人が、急にその人への虐めをやめてしまいました。もう一人がけしかけて虐めようとしますが、頑として応じません。

虐めを続けようとしていた男は不満そうでしたが、後で、その虐めをやめた人が、虐められていた人に直接こう言ったそうです。

「家族に癌患者がいると大変だよ。自分も300万円くらい治療費を払い込んだし、精神的にもつらい。」

彼が虐めをやめた理由は、同病相憐れむという心境のためだったのです。

もう一人の虐め男にはそういう体験がなく、その話を聴いても虐めをやめようとはしませんでしたが、ぐるになって虐めていた相棒が、急に虐めていた相手に同情的になって、もう一人の男が彼を虐めようとすると。やめろと制止するようになったので、戦意を喪失して、それ以後虐めをしなくなったそうです。

虐めをやめた人にすれば、同じ癌家族を持つ彼が、これから味わう苦しみを思うと、自分が虐められているような気持ちになったのではないでしょうか。

また、別の話ですが、母子家庭で、二人姉弟の母親が亡くなった時に、葬式で色々な人からお悔やみを言われたそうですが、ありきたりな同情の慰めの言葉が多い中で、もっとも心に染みたのは、「悲しみのあまり、慰めの言葉もありません。」と言って、その場に泣き崩れた人の様子を見た時だと、息子が言っていました。

ですから、ここでいう悲しみとは、自分のための悲しみではなく、他人のための悲しみ(それこそが、神の御心に添った悲しみで、相手に対する思いやりから出てくるもの)です。

また、逆の例としては、田舎にいた頃、片腕を失った一人の女性がいました。ご主人のために煙草屋にたばこを買いに度々訪れていました。

すると、煙草屋の女主人は、その女性がたばこを買いに来る度に、その女性の体を見ながら、その女性にいつもこう言うのだそうです。

「あんたは右腕がなくて、本当に可哀想だね。」と。

傷口に砂を刷り込む行為というのは、こういうことをいうのでしょう。

健常者の優越感からの、一見同情心とも見える言葉の裏に隠された、相手に対する差別の感情。

こういう言葉を言うのなら、本人がいない所で第3者に言うべき言葉でしょう。悪口としてではなく、同情の言葉として。

言われていた、本人の気持ちはいかばかりであったでしょうか。

優しい性格でなかったら、同情めかした侮蔑の言葉に対して、相手に噛みついていたかもしれません。

しかし、そうすれば相手は、「同情の言葉をかけてやったのに、こっちに噛みついてきたのよ。やっぱり身障者ってひがみぽいって本当だわね。」と、その時こそ第3者に悪口を言って触れまわるでしょう。

本心からの同情なら、決してこういうことはしないはずですから。

まことに、「度しがたくは世人である」という言葉は本当だと思います。

また、教会の中にもこういうことをする人がいます。

あるクリスチャンの奥さんの子供さんが、精神疾患を患っていました。御主人は京都大学出身のエリート。自身も公的な教育関係の仕事に携わっていましたが、夫婦共稼ぎのため、息子は鍵っ子で寂しい少年期を過ごし、やがて精神疾患を患うようになってしまいました。

母親であるその奥さんは、今でもその事を悔やんでいるのですが、その家庭事情を知った同じ教会のクリスチャン婦人が、何の目的なのかはわからないのですが、教会で会うたびに、「息子さんがそのような状態で、大変ですね。」と、触れられたくない部分に、毎回挨拶がてらに触れてくるというのです。

「ご心配いただいてありがとうございます。」という言葉を、ぐちゃぐちゃにされた気持ちの中で返すのが、精一杯だと言っていました。

これが、このイエスの言葉「あなたがしてもらいたいことを、他の人にもしてあげなさい。(裏をかえせば、「あなたがされたくないことは、他の人にもしないようにしなさい。」ということです)」を知っているはずのクリスチャンの言うべき言葉なのでしょうか。

これも同情するふりをして、相手の傷口に砂を塗りつける行為です。

相手の社会的な立場の高いことに対する羨ましさが、嫉妬に変わり、そのいいはけ口を家庭の不幸に見つけたあげくの行為なのでしょうか。

社会の中のノンクリスチャンでさえしないことを、イエスの言葉を知っているはずのクリスチャンの中に、こういうことをする人がいるというのも、残念ながら現実なのです。

教会に集まっている人たちが、みないい人ばかりでないのは、社会と同じことです。

教会は特別な場所だと言われていますが、皆が一致して、イエスに従うような理想的な教会でなければ、一般社会と同じです。

むしろ、一般社会では罪とまでは言われないことも、罪だ罪だと言われて、それだけに、それに基づいて他人を裁くことも多くなってきます。

エスが言われた、「人を裁いてはならない。」という言葉を実行するのは、クリスチャンにとっては、なかなか難しいことのようです。

自分では、そうと気づかずに人を裁いている場合もあります。

最終的に、人を裁けるのは、人の罪のために自らの命を差し出したイエスだけですが、彼は、最後まで人を裁きませんでした。自分を無実の罪で殺した人々さえも。

ましてや、私達罪人に人を裁く資格があるでしょうか。

エスが再臨するときには、裁き主てして来ると言われていますが、それさえも、イエスを使わした神の指示によってやることであって、人間がイエスを信じないと、やがてイエスによって裁かれて地獄に行くなどとは、人間が神の座に座って話すことであり、われわれ人間がするべきことではなく、それこそ神の呪いを受ける行為です。

神と、神に成り代わって話した人との間には、次のような会話が成立することでしょう。


「お前は誰の許可を得て、そのようなことを言うのか。」

人間
「いいえ、神さま。私は聖書に書かれてあるあなたの言葉を代弁しただけです。」


「人は神の座に座って人を裁くことはできない。なぜなら、あなた自身が裁かれるべき人なのだから。」

人間
「いいえ、神さま。私は決してあなたに裁かれたくはありません。」


「それなら、あなたは人を裁いてはならない。あなたが裁く、その計りであなた自身が私によって裁かれることになるからだ。ただ、私が罪の許しのために遣わしたイエスを信じ、彼に従いなさい。彼の思いのすべてはわたしの思いと同じなのだから。」

教会には邪悪な人もいます。国の法律を犯した犯罪者だった人もいます。

エスは全ての人を招いておられるので、色々な人が来ます。

しかし、イエスは邪悪さを嫌います。

自分の邪悪さを持ったまま、天国に行きたいために、礼拝に出席し、献金しても残念ながら天国には行けません。

なぜなら、天国へ行ける資格は、その人の心のありようで決まるのであり、イエスを救い主と信じると告白しても、よい実を結ばない人は天国には行けません。

天国は、この世界以外のどこかにある場所ではなく、この世にあるからです。

エスの言うように、「神の国はあなたのただ中(心の中)にある。」ということです。

3 柔和な人は幸いです。その人達は地を受け継ぐからです。

これについては、異論のある人がいるだろうと思います 。

悪人でも、子孫に地(不動産)を受け継いでいるではないか。
柔和な人が、騙されて土地を取り上げられたり、公共事業で立ち退きたくないのに、裁判にかけられて、撤去を余儀なくされたりしている人達もいるではないか。

言い分は、もっともなことだと思います。。

ここで、イエスの言葉が唯一当てはまる場合を聖書の中から探すとすると、イスラエルの民が、出エジプト後に、カナンの地を先住民との戦いの末に獲得した後に、イスラエルの民の不信仰の罪(偶像礼拝やその他のもろもろの律法違反の罪)のために、多民族の侵入を受けて、居住地を失ったことが、逆説的な意味ですが、当てはまると思います。

4 義に飢え渇く者は幸いです。その人達は満ち足りるからです。

義に飢え渇く者とは、正しいことを求める人のことです。

パウロは「義人はいない。一人もいない。」と極論していますが、これはイエスと比べた場合の話で、ケースバイケースでは、人が正しいことを求めることはあると思います。

しかし、イエスの言っている義が、神に匹敵する正しさということを言っているのだとしたら、残念ながら、その基準を満たすのは、イエス・キリストただ一人ということになります。

人間には、とうてい到達できないような、非常に高い倫理基準ですから。少なくとも、私はたとえ目指しても、残念ながらできないと思います。

5 憐れみ深い人は幸いです。その人達はあわれみを受けるからです。

「情けは人の為ならず」という言葉もありますが、
反対に「恩を仇で返す」「飼い犬に手を噛まれる」という現実があることも確かです。

人からのあわれみは、相対的です。

この場合は、状況には左右されない、神の絶対的な憐れみ(自分の命を捨てることになっても、相手を愛し続ける)のことを言っているのでしょう。

これも、とうていわたしのような凡庸な人間には、実行不可能なことです。

6 心のきよい者は幸いです。その人達は神を見るからです。

これは、信仰心を持っている人に対して言っている言葉ですが、たとえイエスを知らなくても、イエスが言っていることを知らずに実行している人は、知っていながら実行しない人より、はるかに神の目に叶った人であるということだと思います。。

クリスチャン、必ずしもクリスチャン足り得ず。ノンクリスチャン、必ずしも神の目に叶わぬ者となるわけではない。というわけです。

自称クリスチャンが、必ずしもイエスの言うことに従っているわけではないということですね。その人が確信犯なら、偽クリスチャンと言われても仕方がないでしょう。

キリストの身代わりの犠牲を、自分勝手な理由で利用していないか、自分を始め、常に自己吟味を怠らないようにしたいものです。

もし、クリスチャンと名乗っているならば。

7 平和をつくる者は幸いです。その人達は神の子と呼ばれるからです。

平和を作り出す人は、何もクリスチャンだけとは限りません。クリスチャン同士で、平和どころか罵(ののし)り合うこともあります。

エスを知らずとも、イエスの言うことを実行している人は、イエスから胸の中に、クリスチャンの称号をいただいている人だということができると思います。。

7 義のために迫害されている人は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

この言葉にふさわしいのは、日本では、明治以後では、戦時に軍部に抵抗を続けて、迫害を受けたり、殺されたりした当時のホーリネス系のクリスチャンがその代表的な例でしょう。軍部に迎合して生き残ったクリスチャンは、残念ながら失格です。

しかし、イエスの弟子達も、イエスの十字架の迫害の時には、皆逃げ去り、イエスへの信仰は隠しました。

しかし、イエスの復活を自ら体験することにより立ち直り、その後は宣教に命をかけました。

日本のさまざまな教派のクリスチャンも、戦後にこのように悔い改めたのでしょうか。

日本基督教団では、戦争加担への責任に対する謝罪は、戦争体験者の謝罪文掲載への反対により、ながらく謝罪文は出されませんでした。

現在のクリスチャンの中枢部にいる人は、ほとんどその人達の教えを受けて育った人々です。

若い指導者達に期待しています。