愛にまさるものは、この世にただ一つさえない
どんな立派な行為も、美しさも、才能も、豊かさも、愛がなければむなしいだけだ。
社会の中では、多くの賞賛の声と、羨望のまなこがそれに向けられるが、それらは永遠ではなく、いっとき、束の間の出来事で、全ては過ぎ去っていく。
全てがなくなっても、最後に愛が残るならば、全ての失ったものを、補ってあまりあるのである。
そう信じられる人は幸せだと思う。
人間の、人間による、人間のための教会
それが、よい意味なら、それで全然構わないと思うよ。
わざわざ、神の名前を出さずとも。
しかし、悪い意味なら、神の名を使っている分、その罪は幾重にも増して重くなる。
キリスト教って、本当にただ信じるだけでいいの
聖書のイエスの言行についての学びは、しばらく休みます。
今回は救いの本質についてです。
救われるために必要なのは、信じることだけとよく言われる。
救いというのは、魂の救いということらしいが、魂の救いとは罪からの救いだという。
しかし、人間には、自分で自分の罪から救われる力はないという。
そこで、罪を持たない神の子であるイエスが、人間の罪を背負って、身代わりに神から罰を受けたことにより、人の罪はイエスの身代わりの犠牲により赦されたというのが、キリスト教の根本教義であり、イエスがユダヤ人によって十字架で殺された真実の意味は、神の信じられないような愛の行為である。
というのが、キリスト教の教えである。
これが信じられないと、キリスト教はわかりません。
普通では絶対に起こり得ない、正当防衛さえ愛のために拒否する行為。
それが、キリスト教の根本です。
普通の人では逆立ちしてもできない行為です。
だから、キリスト教を信じることは難しいのです。
信じるだけで、罪が許されるという誰にでも出来そうな簡単なことなのに。
しかし、本当にイエス・キリストを信じるということは、どういうことなのかということを真剣に問いかけて実行しようとするならば、それがいかに困難を極めるものかということを、いやというほど知ることになります。
人が作った教会に行くことと、イエスに従うことは、必ずしもイコールではありません。
イエスの言行研究会 マタイ第6章の1
今日のテーマは、
【施しをするときには、人に見せるためにしないように】です。
今日のテーマの分かりやすい例として、世間でも、売名行為だと言われるケースがよくあります。その行為が売名のためなのかどうかは、本人が一番よく知っていることです。
しかし、例えそうであっても、本人は、「これは売名のためやっている。」などとは、絶対に口が避けても云いません。
ただ他人は、それは売名行為だと批判するだけです。
しかし、売名行為が必要な世界もあります。
名前を知ってもらうことが、自分の生活に直結する場合です。
売名というと、悪いイメージに響く言葉ですが、政治家や芸能人にとっては、名前を売ることは必要です。
問題なのは、その動機が不純であったり、本来の目的外のためにやることです。
実例を上げると、内心は利己主義のかたまりの政治家であっても、自分のイメージアップを図るために、慈善事業に寄付したり、事務的に災害地に行ったりすることなどがそれに当たります。
票につながる団体への援助は、有権者との露骨な癒着を表しています。
利己主義のかたまりで、そんな人の評判のことなどは考えない人もいるでしょうが、裏で悪いことをしていても、それを隠蔽して、クリスチャンであっても、表向きは人のためにいいことをしているふりをする人のことを、聖書のこのところでは言っているのだと思います。
いわゆる偽善者のクリスチャンです。
徹底した利己主義者は、そもそも博愛の精神を掲げている教会などには、近づかないものですから。
そんな人にとっては、献金することなどは、自己の財産を奪われるとんでもない行為でしょう。
しかし、わたしたちのように、多少なりとも信仰ということに関心や関わりを持っている者にとっては、この問題に無関心ではいられないでしょう。
個人的な良心の問題に関わって来ますから。
本人が、自分のクリスチャンとしてのイメージアップのためにしているなら、その動機ゆえにイエスから見て、非難の対象になります。
ただし、同じクリスチャンに批判されるかというと、クリスチャンは人の悪口を言ってはいけないと言われていますから、クリスチャンがその教えを守るならば、同じクリスチャンからの批判は免れます。
クリスチャン同士で批判し合うことは、キリスト教界の中ではよくあることですが、キリスト教という世界の中で、悪に対して自分がクリスチャンとしてどういう行動を取るべきかについては、慎重に判断するべきことでしょう。
「蛇のようにかしこく、鳩のようにすなおに」
という、実行するのがなかなか難しいことをイエスさまは私達に要求しています。
ただ、批判というのではなく、悪徳教会の内情の事実を知らせて警鐘を鳴らしておくことは、その世界を知らない人の中で、特にこれからその世界に入って行こうとしている人にとっては、是非とも知らせておくべきことだと思います。
本人が知らないでいたために、今までも入った人が被害を受けた現実がありますから。
また、違う局面からの話ですが、本人にはその気がなくても、教団内のイメージアップのために、広告塔として利用される場合もあります。
カトリックには、多くの聖人と称された人々が存在します。最近ではマザー・テレサもその一人です。
また、ある教会に行った時に、すざまじい迫力で驚嘆するような祈りをする老婦人がいました。
牧師は、「うちには(「この教会には」でも、かなり内向きな表現ですが、【うち】と言うとさらに内向きというか、ほとんど私物化しているような表現です)には、このような信徒がいるのです❗」と私に言いましたが、確かに私も凄い信徒だと思いましたが、この牧師は、その素晴らしい信徒を自慢することが、神様から見て、自分自身の誉れになると思って話しているのだろうかといぶかしく思いました。
自分が、その教会の牧師をしているから自慢したくなったのでしょうが、それはその人自身の誉れではあっても、牧師の誉れではないと思いました。広告塔にしたかったのかもしれませんが、厳しいことを言いますが、牧師という仕事をしている以上、本人がするべきことは、信徒じまんではなくて、自分自身が神と人から誉れを受けられような存在になることだと自覚してほしいと思います。
それが感じられなかったので、その時にその教会員になるように勧められましたが、断りました。
いくら素晴らしい広告塔がいても、肝心の牧師がそんな人なら、この教会には入りたくないと思たからです。
またその牧師は、「イエスさまは情欲を持って女性をみたことがないのだろうか? そうであった方が、イエスさまが自分に身近な存在に感じられるのだが。」と、私を驚かせるような発言もしました。
裏で姦淫をしながら、表向きは清廉潔白と思わせるような言動をしている牧師は、警察に捕まるような事はなくても、すでに信仰的には神様の目からは確信犯の罪人扱いで、信仰者としては完全に失格ですが、この牧師の発言も相当に問題発言であり、わたしは、この発言で、この牧師に対する信頼をなくしました。
しかし、人間は過ちを冒す者ですから、イエスさまが、人の過ちについて、7度を70倍するまで相手を許しなさいとおっしゃっているのですから、間違いを侵した相手も許さなければならないでしょう。
私自身の過ちも、かみさまと人から許してもらわなければならないのですから。
イエスの言行研究会 マタイ第5章の7
8月26日、今日は主日です。
一緒に聖餐をいただきましょう。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子達に与えながら言われた。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
どうぞ、パンを食して下さい。
また、杯を取り、感謝の祈りを唱えない彼らに渡して言われた。
「みな、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
赤い飲み物を、いただきましょう。
ー祈りー
これで聖餐式は終了です。
続いて聖書の話に入ります。
マタイの5ー43~48までです。
今日のテーマ
【敵を愛しなさい】
イエスは、「旧約時代には、同胞や隣人を愛し、敵を憎めと教えられてきたが、自分は、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなた方が天の父の子となるためです。」と言っています。
天の父の子となる(天国に入る)ことは、相当高いハードルを越えなければならないようです。
「私が再び来たとき、果たしてこの世に信仰が見られるだろうか。」という言葉は、まさに現代に至るまでの、人によって作られた教会が、組織づくりと運営にのみに力を注いでいる姿を預言している言葉のようです。
日曜日に教会に来て、礼拝に出席し、献金をしっかり納めていても、家に戻れば世人と同じか、それ以下の生活をしているならば、教会には認められても、神さまに認められるのは難しいようです。
あのモーセとアロンでさえ、冒した罪のために約束の土地に入れなかったのですから。
イエスは、「神さまは悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さるからです。」と言っていますが、善人でも悪人でも自然災害からは逃れられません。
特に農作物が大変な被害を受けると、私達の食卓にも直接影響が出ます。
また、私達がしがちである、仲のよい人同士だけでまとまることを批判して、「悪人扱いされていた徴税人でさえ、同じことをしている。」とも言っています。
自分の兄弟にだけ挨拶をしたところで、特に良いことをしたことにはなりません。クリスチャン以外の人々も同じことをしています。
それどころか、牧師同士やクリスチャン同士でさえ、仲良くするどころか悪口を言い合っているのが現実です。
「どうか、これだけはお願いします。教会員同士がいない所で、お互いの悪口を言うことだけはしないで下さい。」
礼拝の終了後に、ある教会の牧師が言った言葉ですが、いかにそのことが日常茶飯時になっているかということが、その事をまだ知らない新来者である私にもにあからさまになってしまいました。
しかし、その事を知っていながら知らん顔して、決められた時間内で説教さえすれば、こと足れりしている牧師よりは、誠実だと言えるかもしれません:。
「神が完全なように、あなた方もそのようになりなさい。」とイエスは言っていますが、それに「はい。」と答えられる人は、おそらくほとんどいないのが実情でしょう。
私だってそうです。完全だなんて人には無理です。
それでも教会に行っている人は、おそろしく真面目で責任感の強い人か、自分の会いたい人が教会内にいる人なのでしょう。
私は、そんな場所には行けそうもありません。そんな争いは社会の中だけで充分で、「キリストによる一致による平和」というスローガンを掲げている教会の中まで同じようなことに晒されているなら、心を休めに行ってたのに、かえって嫌な想いを抱えて、疲れて帰ってくることになります。
そんな教会に行くことを損だと思ってしまう自分は、神さまのためですと言われて、喜んで献金することはできないと思います。
義務感や責任感で出す人や、出していれば天国行きの切符がもらえると思っている人は献金するでしょうが。
ユダヤ教の聖書の勉強も独学です。まぁ、聖霊というすばらしい教師がついていましたから、人に学ぶ必要はなかったわけです。
そこが、厳格なユダヤ教の教育を受けたパウロとは違うところです。
当時のユダヤ教には、神殿税というものがありましたが、それは全て祭司の収入や、建物の修繕費に使われたのです。
現在の献金の使われる用途と同じです。
神殿を建てても、神さまは、「わたしは、人間の立てたものなどには住まない」と、自ら言っているのにも関わらず、人間は神様のためという建前を作って、自分の人からの評判を取るために、自らの功績を作ろうとするのです。
ソロモンの神殿は、ソロモンの功績にはなったでしょうが、自分はアイデアを出しただけで、建築のために動員されたイスラエルの民の負担は相当なものであり、それに対する不満がソロモンに対する反感となり、それがイスラエル王国が南北の国へ分裂した原因の一つになりました。
これからは、いくら宗教法人法により、税金が免除されるとはいえ、牧師の給料や教会の施設の修繕費や新築費用は、すべて信徒に負担がかかってくるのですから、毎日教会堂を使用してはいないのだから、無理して他の教会に対抗するような形で、自前の教会堂を建てる必要などないと思います。
レンタルルームで十分です。そして会費制にして、牧師は生業として社会的な仕事を持っている方がいいでしょう。
退職された方は別ですが、年金で自活できる方が理想的です。
聖書の解説は、奉仕活動です。
最近は、使用していない時間に、教会堂を一般人に貸し出しをして収入を得ている教会も在るようですが、本来の目的外使用ですが、背に腹は変えられないというところでしょうか。
信徒の献金をあてにして、あまりにも立派な教会堂を建てた後に、信徒離れが起こって、貸ホールとしての収入を不足分の返済に当てているところもあります。
あ~ぁ、ですよね。
それでも割り切る必要があるのでしょう。
借金して建てた物は、返済しなければならないのですから。
しかし、宗教行事以外の有料で市民へ貸し出した際の収入は、税金申告の対象ですが、きっちり税金を納めているのでしょうか。
他人事ながら、そんなことまで考えてしまいます。
部外者なので、教会の私有財産について言及する立場にはないのですが、同じクリスチャンとして、果たしてそれはどうなのだろうと考えてしまいます。
イエスの言行研究会 マタイ第5章の6
今日のテーマは、
【復讐してはならない】です(マタイの5章の38節~42節)。
旧約で、目には目を、「歯には歯を」という掟があり、それは現代的な保障という意味合いよりは、犯した罪に対する罰則的な側面が強かったようです。
それが転じて、報復(やられたらやり返せ)という意味に使われるようななりました。
米国では、「殺られる前に殺れ!」という言葉通りに、護身用の銃の保持が認められています。
しかし、銃刀法の保持の規制の厳しい日本では、特別の人以外は銃を持っていないのが社会の常識ですから、その意識を切り替えないと、米国への留学大学生のハロウィンの事件のようなことも起こるのでしょう。
米国の銃規制は、兵器の縮小と同じように、それによって利益を得ている人々がいる限り、そして、その力(財力による発言力)が大きければ大きいほど、規制は難しくなります。
特に、実業家上がりのトランプ氏が大統領になっている現在は、余計に難しいでしょう。
平和憲法を持っている日本でも、日本国内では使われませんし、表沙汰にはしていませんが、武器を製造して外国に輸出している大企業もあるのです。また、自衛隊の所持する兵器を米国から輸入しています。
米国では、銃の乱射事件が起こる度に、銃規制を厳しくするようにとの声が上がりますが、事態はほとんど変わらず、同じような事件が何度も起こっています。
しかし、大統領がお悔やみを言っても、亡くなった人々は帰っては来ません。銃規制が進まなければ、同じような事件はこれからも起こっていくでしょう。
ただ、事件の問題の裏には、いじめの問題や、社会の格差の問題が潜んでいます。
それらが政治的に解決されない限り、何らかの形での不満の暴発は続いていくでしょう。
それらの犠牲者の遺族は、裁判によって解決を図るしかありませんが、犯人が自殺してしまえば、もう現実的には罪を償わせることはできなくなります。被害者の家族や恋人や友人は、いったいどこに怒りをぶつけて悲しみを癒したらいいのでしょう。
加害者が、実はもともとは被害者であったという事実が、事件に至る前の事情としてあったとすれば、他人事ではなく、社会全体で考えなくてはならない問題だと思います。
「目には目を、歯には歯を」という言葉が、報復という意味で使われている現実は、中東のイスラエルとアラブの戦争です。
もともと。国を失っていたイスラエル人が、シオニズム(祖国復帰運動)の高まりの中で、イギリスの政策を後ろ楯にして、力づくで先住民のアラブ人を追い出して、現在の地にイスラエル共和国を建設したことがそもそもの原因です。
しかし、もっと歴史をさかのぼれば、現在のイスラエル共和国のある地域は、およそ3,500年前に、モーセに率いられたイスラエル民族が、エジプトを脱出して、カナンの地を侵攻して占領した場所であり、その時も、先住民を追い出すか、奴隷にして征服した土地でした。
イスラエルの神の命令によって、行われたと旧約聖書には記述されています。
旧約聖書の記述によれば、それより400年前に、イスラエル人とアラブ人の共通の祖先であるアブラハムという人物が、神の召命により、メソホタミア地方から、カナンの地に移住したのが始まりで、その子供の内の二人が正妻のサラの子のイサクと、女奴隷の子のイシュマエルであり、それぞれがイスラエル民族とアラブ民族の祖先となったということです。
旧約聖書によれば、正妻のサラの子のイサクが正当な後継者で、イシュマエルはいわゆる妾の子であり、神の正式な系統はイサクに引き継がれたというのが、ユダヤ人の主張です。
しかし、旧約聖書には、イシュマエルも、一つの栄える民族にするとの、イスラエルの神の託宣があり、こうしてイサクの子孫からは、イエスが生まれ:、イシュマエルの子孫からはムハンマドが生まれて、それぞれ神の言葉を伝え、その神からの預言の言葉は、それぞれ福音書とコーランとしてまとめられました。
もともと、共通の祖先であるアブラハムを信仰の父としてあがめながらも、現在はキリスト教とイスラム教として、袂を分かち、国によっては敵対関係にあります。
それは、2つの宗教同士の対立だけではなく、キリスト教国の国同士の対立、イスラム教国同士の国にも対立があり、それぞれの宗教の中にも、考え方が違う多くの教派に分かれて、自分のところこそ最も正統な宗教的な神学に基づいて、教義や規則を作り、きわめて複雑な関係になっています。
それは、宗教単位で言えば、一つは教義的な対立であり、イスラエルは、イエスを、信仰の父であるアブラハムの正統な後継者として、位置づけていて、しかもイエスは高潔な人間ではなく、聖霊によって身ごもった、人間の肉体を持っている【神】であるとしていて、イスラム教の開祖であるムハンマドは、神の言葉の預言者ではあっても、ムハンマド自身は、その実質的両親が人間であるとして、父なる神の子であるイエスよりも低い立場に位置づけている。
一方で、イスラム教国は、イエスもムハンマドもどちらも神の預言者としているが、ムハンマドが最後にして最高の預言者としており、イエスを神とは認めていない。
イスラエルは、神が唯一正統な民族として、イスラエルを選んだと信じており、自らの民族の中から救世主が生まれるという旧約聖書の預言を信じているのですが、イエスを偽キリストとして、自らの救世主を十字架につけて殺してしまったために、ユダヤ教徒は、まだ本物の救世主は現れないと思って、それを待ち望んでいるのですが、すでに真の救世主は2000年前にユダヤにイエスとして生まれたのです。そして彼らは、その救世主であるイエスを、自分達の手で死刑にしてしまったのです。
なんという愚かな行為でしょうか。そしていつまで待っても現れない:、ユダヤ教徒の救世主を、今だに虚しく待ち望んでいるのです。
決して現れることのない救世主を。
なぜなら、来るべき救世主はイエスであったのに、ユダヤ人の指導者達は、その自分達の救世主を殺してしまったのですから。
イスラエルの唯一神は、ヘブル語でヤーウェと言い、その名前の意味は「私は在る」であり、天地創造の神です。
一方、イスラム教の神はアラビア語でアッラーと言い、その存在は、全知全能で、時間と空間を超越した存在であり、天地創造の唯一神であるということで、ユダヤ教とキリスト教でいう神、あるいは父なる神ヤーウェと、その性質と働きを同じくする存在です。
2つの宗教は、同じ神を礼拝しながら、信仰の創始者が違うために、別の宗教になっただけなのです。
ただし、ユダヤ教とイスラム教は、自らの信じる唯一神の掟を守ることで救われる(天国に行く)としている戒律主義なのですが、キリスト教徒は、イエスの言葉を実行することを奨励し、イエスはユダヤ人に殺されましたが、最後まで同胞であるユダヤ人を敵と見なさないで死んでいったことに対して、イエス・キリストの十字架は、人間を罪から救うための、神が与えた身代わりの犠牲としてとらえています。
そして、神として新しい体を持って、十字架刑の3日後に復活した後、天に昇ったと信じています。
さらに、全世界に宣教が行き渡った時点で、イエスは次には、救い主ではなく裁き主としてこの世に来て、各々の生前の言動について裁くと言われています。
ただし、イエスの身代わりの犠牲を信じた人は、その罪を裁かれず、赦されるということになっています。
そして、キリスト教徒はイエスの復活と塘に、そのことを堅く信じています。
もし、キリストの復活がなかったら、キリスト教は、愛の宗教ではあっても、この世の命というレベルにおいては、ユダヤ教徒に命を奪われて負けたことになります。
しかし、肉体の寿命とは別の霊的な真の命があるとイエスは言います。
キリストが復活していなければ、キリストの再臨も絵空事になり、キリスト教はその根底から瓦解します。
ただし、復活が事実だとしても、復活体とはどういうものかとか、キリストはどのように再臨するのかということについて、イエスははっきりとは言っておらず、弟子達の証言をもとにして福音書と弟子の手紙によって、さまざまな神学的な考察が行われていますが、その解釈は四分五裂しています。
そのどれを正解とするかは、イエス以外の弟子の言葉を、神からの聖霊による言葉とするか、弟子の人間的な知恵によるイエスの言葉に対する解釈と考えるかによって結論は違ってきます。
新約聖書を全て神の霊感による、神からの言葉と判断するならば、それに対する神学的考察は意味があるでしょうが、もし、弟子の人間的な知恵や希望によるものがその中に含まれているとしたら、それらに対する神学的考察は虚しいものになります。それは単なる人の知恵だからです。
イエスの再臨が、その誕生と同じように、文字通り歴史のある時に実現したなら、弟子達のイエスの再臨に関する言葉は真実を伝えていたという証明が出来るのですが、イエスが一度死んで、新しい体で復活したと言われている2000年前から今まで、何度も今が終わりの時であると言われ、キリストの再臨は近いと言われてきたにも関わらず、その都度歴史的な現実としての、イエスの再臨は起こりませんでした。
イエスの言っていたことは、宣教をしなさいという命令であり、全世界の隅々まで宣教が進めば、刈り入れの終わりの時が来るという言葉だけであり、その前兆が語られただけです。ただし、その後に自分はまた来ると自ら言っています。
しかし、また、イエスの再臨は人の目でとらえられるような形で来るものではないとも言っています。
再臨は、あそこにいるとか、こちらにいるとかというような形で来るのではなく、雷が東から西に轟くように来るというのです。
そうすると、地上にイエス以後に人間として生まれた者で、私が再臨のキリストであると名乗った人は、全て偽キリストということです。
そのような者が、終わりの時には大勢現れると言っています。
事実、統一教会の文鮮明は、人間として生まれたのにも関わらず、独自のキリスト教の理論を構築し、自分こそ再臨のキリストだと言って憚りませんでしたが、死んで墓に入りました。復活もしませんでした。
さらに、イエスは、「再臨がいつ来るのかについては、あなた方の知るべきことではないし、自分も知らない。」と言っています。「天にいる父なる神だけが知っている。」と、福音書の中には記述されています。
これらのことを総合的に考え合わせて再臨とは何かということを考えてみると、イエスでさえはっきりとは明かせなかった神の奥義を、弟子たちに聖霊が与えられて明かされたとは考えにくい。
ただ、イエス自身が、「私を信じる者は私よりもさらに大きなことを行う」と言っていることを考えると、イエスを信じる弟子達に聖霊という形でイエスが臨んで、イエスが伝えきれなかった神の奥義を伝えなかったとは言い切れない。
パウロが、自分の生きているうちに再臨が起こるだろうと思っていたことは、よく知られている事実ですが、それは起こらなかった。
福音が全世界に伝えられて、それから終わりの時が来るというイエスの言葉を考えれば、単なるパウロの希望的推測であり、聖霊による預言ではなかったことがわかりますが、聖書の全ての言葉が、人間の推測ではないし、全てが聖霊による預言の言葉であるとも言えません。
人間が書いたものは、背後に聖霊の力が働いていたとしても、どうしてもその人の主観が入ります。
それが聖書を複雑な解釈の難しいものにしている原因の一つです。
多くの翻訳本があるのも、解釈を難しくしている原因の一つに挙げられます。
この問題は非常に難しい問題なので、ここではこれ以上深入りをしないことにします。
話を聖書に戻します。
「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい。」
「一ミリオン行くように強いられたなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」
まるで、泥棒に追い銭のような話です。
しかし、ここでのイエスの真意は、人と争うなということを言っているのではないかと思うのです。
ただ単に人の言いなりになったり。逆に人とむやみに対抗するなということを教えているように思います。
そのために、:「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」という言葉が与えられています。
世の中には、邪悪な狼のような人間もいるので、自分が正しいと思ったことでも通らないことは沢山あります。
だから、人の言いなりにならず、かといっていたずらに対抗心を持ったりもせずに、正しく素直な心を持ちながらも、さまざまな人がいることを考えに入れて、自らの言動に関しては、他人には、出来る限り慎重な配慮をすべきであるという教えだと思います。