イエスの言行研究会 マタイ第5章の3

戒め

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように教えたりする者は、天の御国で、もっとも小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教えるものは、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

これは、法律にがんじがらめになって、人を裁けと言っている言葉ではありません。

神の与えた法律は、全て正しいし、守らなければならないが、法律が愛より上に立ってはならないという前提があっての話です。

エス自らが、安息日の原則を愛の行為のゆえに破りました。

また、正しいものが、冤罪によって殺されるということを受け入れたこと(十字架刑)も、ユダヤ教の法律ではありませんし、あり得ないことでした。

正しい者(ユダヤ人にとっては法律を守っているもの)が罰を受けるのではなく、法律を犯した者が罰を受けるのだからです。

だからこそ、法律主義のパリサイ人は安息日の掟を破ったイエスを、偽のキリストと決めつけたのです。

十戒には、あなたの神を愛せよ、あなたの隣人も神と同じように愛せよという、イエスの言葉はありません。

しかし、この2つを完全に守るなら、決してユダヤの法律にも違反することはないのです。

表面的には、法律に違反しているように見える行為でも、その動機を探れば、決して法律通りの行為でなくても、許されるというのがイエスの立ち位置です。

いや、むしろ、法律を破っても、そうせざるを得ない、愛による動機の行為は、法律に優先するということです。

そうでなければ、イエスの十字架は神が許すはずがないのです。

安息日は、人のために創られたのですが、一度できた法律にこだわるあまり、何のために安息日が創られたのかを忘れてしまい、法律に人を縛りつけるようになるのです。

ユダヤ教徒ばかりか、イエスにより、罪から解放され、自由を得たはずのクリスチャンまでもが、ユダヤ教徒のような法律第一主義のような発言をしていることは、嘆かわしいことであり、イエスに言わせれば、

「私は何のためにあなた方のために犠牲になったのか。旧約時代のユダヤ人のような法律主義に戻らせるためではないのに。」と、嘆いていることでしょう。

聖書はイエスキ・リストを証ししている書物であり、イエスの愛の言葉は、旧新約聖書全体を覆っているのであり、聖書全体の言葉は、ユダヤ教徒であった人間パウロの言葉ではなく、イエス・キリストの言行によって、解釈し直さなれなければならないのです。

聖書の頂点は、イエス・キリストであり、それは、どんなことによっても変えることのできない真実です。

それをもってすれば、現代のキリスト教界で意見が二分している、同性愛者にどう対応するべきかは、自ずと解答が出るはずです。

同性愛が罪かどうかというなかなか結論の出ない議論をするより、イエスが同性愛者に対して、何と発言するかということの方が大切な問題です。

聖書の中にも、足の不自由な人に対して、パリサイ人が、「この人が足が悪いのは、この人の罪ですか、それともこの人の先祖の罪ですか。」とイエスに訊ねた時の、イエスの答えは、「どちらでもない。この人に神の愛が現れるためである。」と言った。そして、すぐに神の愛の力を示すために、即座にその人の悪い足を癒した。

それでは、この話から同性愛者に対して非難する人に、イエスは何というだろうか。

一つは、「あなた方の中の罪のない人が、彼らを非難するがいい。」と言うであろうこと。

目くそ鼻くそを笑うという諺は、この場合、真実である。

もう一つは、「この人の罪でも、先祖の罪でもない。」と言い、「異性愛者になりたいか。」と訊き、「なりたい」という人は、すぐにも異性愛者に変えてしまうだろう。

しかし、彼が、「私にはただ一人、心の底から愛して合っている同性のパートナーがいます。社会に受け入れられるからとか、子供ができないからという理由で、異性愛者になって、彼の愛を裏切ることはできません。さまざまな不利益を引き受けても、私は彼と離れたくありません。」と言ったら、イエスは何と答えるだろうか。

「神は人間を男と女に創った。あなた方の愛は間違っている。すぐにも別れなさい。そして二度と逢ってはいけない。また、よりを戻して罪を犯すといけないから。」と言うのだろうか。

同性愛者を、その事自体が罪に当たると思っている人、あるいは、あなたが同性愛者であることで、人間的には差別はしないが、あなた達の性行為は罪に当たるから禁じるという、性が人間という存在そのものと切り離せないものであるという事実を知りながら、その人の人権を無視して、体と心を切り刻むようなことを平気で言う人がいる。

そして、同性愛者には性行為を禁じ、自分達だけは、神によって許されたとして、結婚生活の中で思う存分、性生活を楽しんでいるのである中での発言である。

他人の痛みは100年でも平気でいられるのが、愛のない人が相手に取る態度です。

聖書に記述されている、男色の話は、社会の中での性の乱れという文脈の中での記述であり、現代的な意味での同性愛の概念とは違います。

性の乱れという意味では、異性愛者同士でも性の乱れは多数派の中で常に行われています。不倫も異性愛者の中でも、いつもあることです。

キリスト教では、婚外性交渉を罪として禁じています。

従って、性交渉は結婚生活の中でのみ認められています。離婚については、カトリックプロテスタントでは、意見が異なりますが、婚外性交渉を禁止しているのは、同じです。

「性の乱れは、罪である。」

それについては異論はありません。

現代の同性愛者の間でも、性の乱れはあります。

それについては、異性愛者と同じく罪とされても当然のこととして受け入れられなければならないでしょう。

歌舞伎町も、新宿二丁目も同罪なのです。

性の乱れに、異性愛者と同性愛者との間に違いはありません。

しかし、同性結婚が社会に認められていない時代には、同性愛者はパートナーを探して見つけても、せいぜい同棲までで、社会的な身分の保障は何もなかったのです。

何よりも、社会の目と宗教的な禁忌事項として、キリスト教社会の中でさえ、性規範を乱す犯罪として法制化され、死刑まで行われていた時代は、中世の魔女狩りのように、ほんの100年くらい前の時代まで行われていたのです。

キリスト教で、異性愛者の婚外性交渉を禁止しているのは、不倫と性規範の乱れを防ぐためだと思いますが、それと同じ理由で、同性愛者の不倫と性規範の乱れとしての、性交渉の相手を取っ代えひっ代えするフリーセックスを禁止するのは、相手の人格を毀損する行為として、また性病の蔓延を防止するために意味のあることであると思います。

同性愛者の中にも、女性との性交渉が可能な人もいて、結婚して社会的な地位を安定させてから、同性の恋人を作って秘密裏に不倫をするというのは、特に結婚しないことが社会人としての評価を落とすような時代には、この方法をとっていた人が比較的多かったのです。

しかし、異性との性交渉が、本人の生来の性指向のために不可能な人は、性交渉の相手として、同性愛者を探すほかには方法がなかったのです。

キリスト教の、同性愛者に対する性交渉を禁止する理由として上げられているいくつかの
聖書の中の記述があります。

それを一つずつ検証してみることにします。

相手がキリスト教スペシャリストなので、他の話に発展する可能性があるので、できるだけ焦点をこの問題に絞って質問してみたいと思います。

1 神は人を男女に創られて、二人は一体になり、子供を作り、それが人の繁栄に繋がる神からの祝福である。従って、それに反する同性間での性交渉は神の作った法則に反逆する行為であり、許せない罪である。

【1に対する検証】

〈検証者〉

神は確かに、人を男と女に創ったかもしれないが、人に限らず、地球上の生命体には全てバリエーションが存在し、それは普遍的な事実である。この事に対して、キリスト教指導者達は何と答えるのだろうか。

「神さまが間違いをおかすことは絶対にない」というのが、彼らの大前提なので、「それは神さまの間違いです」とは、絶対に言わない。

では、全てが神さまの創造なら、出てきたものは皆神さまの作品なのだから、全て正しいものではないのですか?

キリスト教指導者の答え(以下指導者A、B と省略します。)〉

神さまが創った時には、正しかったのだが、人間には自由意思が与えられているので、人間自身が、自分で間違った道へ迷い込んだのです。

〈検証者〉

では、同性愛者は、自分の意思で同性相手と性交渉をしているというわけですか。

〈指導者A 〉

当然そうでしょう。神さまがそういう道に人を誘うことは、絶対にありません。

〈検証者〉

なぜ、同性間で性交渉をしたら罪になるのでしょうか。

〈指導者A 〉

神の意思に反する行為だからです。

〈検証者〉

神の意思とはどういうことですか

〈指導者A 〉

男女が一つになって、健全な家庭を作り、子孫を残すことです。その上で家族全員が神を信じて、神の意思に従うことです。

〈検証者〉

では、なぜ異性がいるのに、敢えて同性と性交渉をするのでしょうか。

〈指導者A 〉

それは、人間には原罪があるからです。それが全ての罪の根です。そこから、色々な罪が発生してくるのです。

〈検証者〉

では、人間はもともとパンドラの箱のようなものだと考えてもいいのでしょうか。

〈指導者A 〉

人間に原罪がある以上、程度の差はあっても、全ての人がパンドラの箱を持っているとも言えます。パンドラの箱は、ギリシャ神話の話ですから、例えとしていえばということですが。

〈検証者〉

どうして、人間には原罪があるのでしょうか。

〈指導者A 〉

最初に人間が創られた時には、無垢な状態で、原罪はありませんでした。しかし、神の命令に背いて、蛇(悪魔)の誘惑に騙されて、食べてはならないとされていた善悪の木の実を食べたので、その時点で人間は神に反逆する極めて罪深い存在となり、原罪を背負ったのです。

〈検証者〉

なぜ、人間は悪魔に騙されたのでしょうか。

〈指導者A 〉

サタンの方が、その時点ではるかに人間よりも知恵があったからでしょう。悪知恵ですが。その時には、人間の方が無垢ではあっても、無知だったので騙されたのでしょう。

〈検証者〉

騙されたのは、最初に創られた人間であるアダムとエバですか?

〈指導者A 〉

聖書では、そう教えているというのが、聖書を、唯一の誤りなき神の言葉と信じている福音派の私達の立場です。

〈検証者〉

アダムという名前の原意は、アダマという普通名詞で、人間という意味だそうですが、聖書の天地創造の中で、最初はアダムという名前は使われず、人、あるいは男、女という言葉が使われていますが、3章21節になって、初めて固有名詞であるアダムという名前が出てきます。

物語としては、その前に出てくる「男」とアダムは同じ人であるように記述されているのですが、この「男」という普通名詞で書かれている人物と、固有名詞で書かれているアダムは同人物と考えていいのしょうか。

旧約聖書には、このアダムから、人類を始めとして、イエス・キリストまでのイスラエルの歴史が纒綿と綴られているのですが。

エバについては、「人」がその妻に名前をつけたと書かれています。

〈指導者B 〉

私達のグループは、聖書の中に、アダムとエバという、固有名詞で存在していたとされる特定の人物の他に、別の人類が既に存在していたと考えています。ですから、アダムとエバが実在していた人物だとしても、たかだか今から6000年前のことですから、現代考古学の成果から考えても、人類は、その前から地球上のあちらこちらに居住していたと考えています。

〈検証者〉

とすると、人間が原罪を持っているという起源については、違う考えを持っているということですか。

〈指導者B 〉

そうです。男と女が善悪の木の実を食べて原罪を持つようになったというのは、一種の寓話だと思っています。

人間も動物の一種である限り、本能を持っているわけで、自己保存本能も持っているわけですから、獲物を巡って争い事もあったでしょうし、善と悪と言っても相対的なもので、絶対的な善も、絶対的な悪も人間には当てはまらないと思います。そのような太古の時代から、人間は善とか悪とかの認識なしに、善悪とされる行為を行って来たのでしょう。

それが、文字を使うようになり、法律として明文化されたのだと思っています。

事実、旧約聖書が書かれたのは、アダムの時代よりも何千年も後のことですから、旧約聖書の記録者は、現実に自分の目で見たことを書いているわけではないのです。

〈検証者〉

では、人間の心が悪に傾くのは、聖書の記述のように、善悪の木の実を食べたからではないと考えているのですね。

〈指導者B 〉

そうです。人間の心は、もともと善にも悪にも傾くようにできており、どちらに傾くのかは、本人の生まれつきの素質と、周囲の状況により変わるものだと思います。

普段はいい人だったのに、自身の環境が激変したり、戦争に行ったりすると、別人のような行動を取ることは、ご存じの通りです。

〈検証者〉

とすると、やはり人間には善や正を志向する心と、悪や堕落に傾く心が同居しているということでしょうか。

〈指導者B 〉

そうですね。その仕組みについては、私の専門外ですが、仏教の教えの方がよくわかるかもしれません。その悪に傾く心の根を原罪という言葉で表すこともできるでしょうが、それは、アダムが善悪の木の実を食べた結果であるとは考えていません。

〈検証者〉

罪の起源については、AさんとBさんでは、同じキリスト教の指導者でも考え方が違うのですね。

〈指導者A 〉

私達福音派は、聖書の言葉を一字一句、誤りなき神の言葉として信じていますから。

〈指導者B 〉

私達は、自由主義神学者ですから、聖書の言葉を検証した上で、信じるべきものとそうでないものとを振り分けます。

〈検証者〉

では、お二人の現代の同性愛者に対する考えを聞かせて下さい。

〈指導者A 〉

私達福音派は、同性愛に関しては否定的です。同性愛の何を罪とするかは、私達の間でも色々な見解があり、同性愛の性的な指向を持っていること自体を罪とする人もいますし、その事自体は罪とは言えないが、同性に対してそのような欲望を持った時点で罪になるという考え方をする人もいます。

また、確かに異性愛者も異性に欲情した時点で罪を犯したとイエスが言っているので、そうかもしれないが、われわれ異性愛者がその度にそれに責め苦を感じるとしたら、とても耐えられない。

しかし、それを実行するなら、自由意思を使って行う行為であるから、責められるべきであるとする考え方の人もいます。

〈検証者〉

しかし、聖書には、姦淫を犯した女をイエスは赦していますが、同性愛者だけは責められなければならないのでしょうか。

〈指導者A 〉

確かに、イエスは姦淫の女を赦しましたが、姦淫はしてもいいとか、非難されない行為であるとは一言も言っていません。むしろ、
「これからは罪を犯さないように。」と戒めて、姦淫が罪であると、はっきりと言っています。

ただ、そのような人を標的にして、敵のように思って非難することは、クリスチャンとして取るべき態度ではないでしょう。むしろ、そのことから離れられるように、愛を持って手助けするべきであって、それでも自らその道に入っていこうとする人に対しては、神さまの判断に任せて、その人のために祈ること以外に、私達人間には出来ることはありません。

〈検証者〉

それでは、同性愛者同士が性交渉をすることが、罪に当たるかどうかという核心の部分について、直接伺います。

〈指導者A 〉

旧約にも、新約にも男同士で寝ることは罪だと書いてあるので、聖書の言葉が無効にならない限り、罪です。

〈指導者B 〉

私達のグループは、同性愛者同士の性交渉を、それだけで罪であるとは考えません。

それがどのようになされるかによって、罪に当たるかどうかが決まると考えます。

性的な快楽を求めて、複数多数の相手となりふり構わず、性交渉を繰り返すことは、倫理的にも、病気の蔓延を招くことからも罪であるのは、異性愛者の場合と同じです。

しかし、同性愛者同士の特定のパートナーとの性交渉は、同性結婚が許されていない国では、認められる行為だと思います。

結婚に準ずるパートナーシップについては、日本でも自治体単位で、既に条令(法律)や要項(規則)で認めているところもありますが、国としての対応は、なきに等しい状態なので、養子縁組制度を利用して、親子(実質は夫夫)として、法律の適用を受けられる立場にいる人達もいます。

ただ、社会に受け入れられるという目的で偽装結婚し、子供を作った後に、同性に性のはけ口を求めて不倫に行くのは、「家庭を壊さないようにして遊べばいいのさ。」と言っている異性愛者と大差ない行動で、決して奨励されるべきことではないと思います。

社会に対しては体面を保ち、しかし妻は裏切り、家庭を経済的、人間的には維持して入るものの、一方で不倫をしているわけですから、日本は不倫は刑事罰を受けませんから、当事者に認識の甘さがあります。

〈検証者〉

わかりました。キリスト教の中でも、大きく二つに考え方が分かれているのですね。

そうしているうちにも、社会は日々、個人の人権保護のために、同性愛者を、異性愛者と同じ立場で扱おうとする運動や法的整備が進んでいます。

今後のキリスト教界の動きに注目していきたいと思います。

閑話休題

さて、イエスが同性愛者に対して言う可能性がある、もう一つの言葉を、聖書に表されたイエスの言葉から推測してみよう。

その時、イエスはその男に言った。

「あなたが、それほどまでに彼を愛していることはわかった。しかし、あなたの、あるいはあなたの彼の、私(イエス)に対する愛は、お互いを愛する愛以上のものなのか。」

同性愛者の一人の男が応えて言った。

「私は、世界の中で一番彼を愛しています。彼も同じです。しかし、二人ともそれ越える愛であなたを愛しています。」

すると、その時イエスの前に悪魔が立って、イエスに化けて言った。

「あなた方二人が、お互いよりも私を愛すると言っているのは偽りである。私の方をより愛しているなら、二人は罪を捨てて、別れを選ぶはずだ。」

同性愛者の男

「あなたは、愛と憐れみの神さまと訊いております。私達が普通の男女と違って、異性を愛せず、愛し合っていても子供も作れない存在であることを憐れんでは下さらないのですか。」

エスに化けた悪魔

「罪を罪とも思わない者に、私が憐れみをかける必要はない。」

同性愛者の男

「あなたは、私達の罪のために、ご自分の命まで捧げた方と聴いております。」

エスに化けた悪魔

「それとこれとは別だ。」

その時、同性愛者の男が、悪魔の正体を見破って言った。

「お前はイエスさまではないな。イエスさまなら、そのようなことを言うはずがない。イエスの名によって命じる。さっさと消えろ!!」

すると、正体を見破られた悪魔は、即刻その場から消え去った。

そのあとに、本物のイエスさまが現れて言った。

「よく、あなたは私に化けた悪魔の言うことを見破ったものです。私が真実を告げましょう。あなた方は、二人の愛を全うしなさい。片方が異性愛者になって、もう一人を捨てることになることは、私は望まない。私は生け贄は好まないが、憐れみを好む神だからである。」

さらに、イエスは二人に訊ねた。

「二人とも異性愛者になるのはどうか。私には何でもできるのだ。そうすれば、お互いに執着はなくなり、新しい異性を見つけるチャンスがあるではないか。」

同性愛者の二人の男

「もし、二人とも異性愛者になってしまえば、私達はイエスさまに次ぐ大切なパートナーを失うことになります。
そんなことになるくらいなら、最愛の彼とこのまま暮らした方がよいのです。」

エス

「その愛は、性欲に縛られたものではないか。片方が性的不能になっても、その愛は変わらないのか。私には君たち二人の内の一人にそうすることもできるのだ。」

同性愛者の二人の男

「私達のどちらかが性的に不能になろうとも、私がパートナーを見捨てることは決してありません。」

エスは、二人の心の中の思いを知って言った。

「あぁ、あなた方の愛は真実です。あなた方二人を敢えて引き離すようなことは決してすまい。お互いを大切にして一生暮らしなさい。あなた方の全ての行為は、性行為も含めて、私は罪には定めない。」


私自身は同性愛者ではありませんが、友人にセクシャルマイノリティの人がいて、セクシャルマイノリティへの差別には、人間として反対です。以上が私の結論です。

ただし、セクシャルマイノリティの人にも、人に迷惑をかけて憚らない人がいます。

ただし、それはセクシャルマイノリティの性的な問題ではなく、その人の人間性の問題であって、それは異性愛者でも同じことであります。

そして、性そのもののことを問題にするよりも、その人の人間性に言及することの方がはるかに大切なことです。