イエスの言行研究会 マタイ第5章の6

今日のテーマは、
【復讐してはならない】です(マタイの5章の38節~42節)。

旧約で、目には目を、「歯には歯を」という掟があり、それは現代的な保障という意味合いよりは、犯した罪に対する罰則的な側面が強かったようです。

それが転じて、報復(やられたらやり返せ)という意味に使われるようななりました。

米国では、「殺られる前に殺れ!」という言葉通りに、護身用の銃の保持が認められています。

しかし、銃刀法の保持の規制の厳しい日本では、特別の人以外は銃を持っていないのが社会の常識ですから、その意識を切り替えないと、米国への留学大学生のハロウィンの事件のようなことも起こるのでしょう。

米国の銃規制は、兵器の縮小と同じように、それによって利益を得ている人々がいる限り、そして、その力(財力による発言力)が大きければ大きいほど、規制は難しくなります。

特に、実業家上がりのトランプ氏が大統領になっている現在は、余計に難しいでしょう。

平和憲法を持っている日本でも、日本国内では使われませんし、表沙汰にはしていませんが、武器を製造して外国に輸出している大企業もあるのです。また、自衛隊の所持する兵器を米国から輸入しています。

米国では、銃の乱射事件が起こる度に、銃規制を厳しくするようにとの声が上がりますが、事態はほとんど変わらず、同じような事件が何度も起こっています。

しかし、大統領がお悔やみを言っても、亡くなった人々は帰っては来ません。銃規制が進まなければ、同じような事件はこれからも起こっていくでしょう。

ただ、事件の問題の裏には、いじめの問題や、社会の格差の問題が潜んでいます。

それらが政治的に解決されない限り、何らかの形での不満の暴発は続いていくでしょう。

それらの犠牲者の遺族は、裁判によって解決を図るしかありませんが、犯人が自殺してしまえば、もう現実的には罪を償わせることはできなくなります。被害者の家族や恋人や友人は、いったいどこに怒りをぶつけて悲しみを癒したらいいのでしょう。

加害者が、実はもともとは被害者であったという事実が、事件に至る前の事情としてあったとすれば、他人事ではなく、社会全体で考えなくてはならない問題だと思います。

「目には目を、歯には歯を」という言葉が、報復という意味で使われている現実は、中東のイスラエルとアラブの戦争です。

もともと。国を失っていたイスラエル人が、シオニズム(祖国復帰運動)の高まりの中で、イギリスの政策を後ろ楯にして、力づくで先住民のアラブ人を追い出して、現在の地にイスラエル共和国を建設したことがそもそもの原因です。

しかし、もっと歴史をさかのぼれば、現在のイスラエル共和国のある地域は、およそ3,500年前に、モーセに率いられたイスラエル民族が、エジプトを脱出して、カナンの地を侵攻して占領した場所であり、その時も、先住民を追い出すか、奴隷にして征服した土地でした。

イスラエルの神の命令によって、行われたと旧約聖書には記述されています。

旧約聖書の記述によれば、それより400年前に、イスラエル人とアラブ人の共通の祖先であるアブラハムという人物が、神の召命により、メソホタミア地方から、カナンの地に移住したのが始まりで、その子供の内の二人が正妻のサラの子のイサクと、女奴隷の子のイシュマエルであり、それぞれがイスラエル民族とアラブ民族の祖先となったということです。

旧約聖書によれば、正妻のサラの子のイサクが正当な後継者で、イシュマエルはいわゆる妾の子であり、神の正式な系統はイサクに引き継がれたというのが、ユダヤ人の主張です。

しかし、旧約聖書には、イシュマエルも、一つの栄える民族にするとの、イスラエルの神の託宣があり、こうしてイサクの子孫からは、イエスが生まれ:、イシュマエルの子孫からはムハンマドが生まれて、それぞれ神の言葉を伝え、その神からの預言の言葉は、それぞれ福音書コーランとしてまとめられました。

もともと、共通の祖先であるアブラハムを信仰の父としてあがめながらも、現在はキリスト教イスラム教として、袂を分かち、国によっては敵対関係にあります。

それは、2つの宗教同士の対立だけではなく、キリスト教国の国同士の対立、イスラム教国同士の国にも対立があり、それぞれの宗教の中にも、考え方が違う多くの教派に分かれて、自分のところこそ最も正統な宗教的な神学に基づいて、教義や規則を作り、きわめて複雑な関係になっています。

それは、宗教単位で言えば、一つは教義的な対立であり、イスラエルは、イエスを、信仰の父であるアブラハムの正統な後継者として、位置づけていて、しかもイエスは高潔な人間ではなく、聖霊によって身ごもった、人間の肉体を持っている【神】であるとしていて、イスラム教の開祖であるムハンマドは、神の言葉の預言者ではあっても、ムハンマド自身は、その実質的両親が人間であるとして、父なる神の子であるイエスよりも低い立場に位置づけている。

一方で、イスラム教国は、イエスムハンマドもどちらも神の預言者としているが、ムハンマドが最後にして最高の預言者としており、イエスを神とは認めていない。

イスラエルは、神が唯一正統な民族として、イスラエルを選んだと信じており、自らの民族の中から救世主が生まれるという旧約聖書の預言を信じているのですが、イエスを偽キリストとして、自らの救世主を十字架につけて殺してしまったために、ユダヤ教徒は、まだ本物の救世主は現れないと思って、それを待ち望んでいるのですが、すでに真の救世主は2000年前にユダヤにイエスとして生まれたのです。そして彼らは、その救世主であるイエスを、自分達の手で死刑にしてしまったのです。

なんという愚かな行為でしょうか。そしていつまで待っても現れない:、ユダヤ教徒の救世主を、今だに虚しく待ち望んでいるのです。

決して現れることのない救世主を。

なぜなら、来るべき救世主はイエスであったのに、ユダヤ人の指導者達は、その自分達の救世主を殺してしまったのですから。

イスラエル唯一神は、ヘブル語でヤーウェと言い、その名前の意味は「私は在る」であり、天地創造の神です。

一方、イスラム教の神はアラビア語アッラーと言い、その存在は、全知全能で、時間と空間を超越した存在であり、天地創造唯一神であるということで、ユダヤ教キリスト教でいう神、あるいは父なる神ヤーウェと、その性質と働きを同じくする存在です。

2つの宗教は、同じ神を礼拝しながら、信仰の創始者が違うために、別の宗教になっただけなのです。

ただし、ユダヤ教イスラム教は、自らの信じる唯一神の掟を守ることで救われる(天国に行く)としている戒律主義なのですが、キリスト教徒は、イエスの言葉を実行することを奨励し、イエスユダヤ人に殺されましたが、最後まで同胞であるユダヤ人を敵と見なさないで死んでいったことに対して、イエス・キリストの十字架は、人間を罪から救うための、神が与えた身代わりの犠牲としてとらえています。

そして、神として新しい体を持って、十字架刑の3日後に復活した後、天に昇ったと信じています。

さらに、全世界に宣教が行き渡った時点で、イエスは次には、救い主ではなく裁き主としてこの世に来て、各々の生前の言動について裁くと言われています。

ただし、イエスの身代わりの犠牲を信じた人は、その罪を裁かれず、赦されるということになっています。

そして、キリスト教徒はイエスの復活と塘に、そのことを堅く信じています。

もし、キリストの復活がなかったら、キリスト教は、愛の宗教ではあっても、この世の命というレベルにおいては、ユダヤ教徒に命を奪われて負けたことになります。

しかし、肉体の寿命とは別の霊的な真の命があるとイエスは言います。

キリストが復活していなければ、キリストの再臨も絵空事になり、キリスト教はその根底から瓦解します。

ただし、復活が事実だとしても、復活体とはどういうものかとか、キリストはどのように再臨するのかということについて、イエスははっきりとは言っておらず、弟子達の証言をもとにして福音書と弟子の手紙によって、さまざまな神学的な考察が行われていますが、その解釈は四分五裂しています。

そのどれを正解とするかは、イエス以外の弟子の言葉を、神からの聖霊による言葉とするか、弟子の人間的な知恵によるイエスの言葉に対する解釈と考えるかによって結論は違ってきます。

新約聖書を全て神の霊感による、神からの言葉と判断するならば、それに対する神学的考察は意味があるでしょうが、もし、弟子の人間的な知恵や希望によるものがその中に含まれているとしたら、それらに対する神学的考察は虚しいものになります。それは単なる人の知恵だからです。

エスの再臨が、その誕生と同じように、文字通り歴史のある時に実現したなら、弟子達のイエスの再臨に関する言葉は真実を伝えていたという証明が出来るのですが、イエスが一度死んで、新しい体で復活したと言われている2000年前から今まで、何度も今が終わりの時であると言われ、キリストの再臨は近いと言われてきたにも関わらず、その都度歴史的な現実としての、イエスの再臨は起こりませんでした。

エスの言っていたことは、宣教をしなさいという命令であり、全世界の隅々まで宣教が進めば、刈り入れの終わりの時が来るという言葉だけであり、その前兆が語られただけです。ただし、その後に自分はまた来ると自ら言っています。

しかし、また、イエスの再臨は人の目でとらえられるような形で来るものではないとも言っています。

再臨は、あそこにいるとか、こちらにいるとかというような形で来るのではなく、雷が東から西に轟くように来るというのです。

そうすると、地上にイエス以後に人間として生まれた者で、私が再臨のキリストであると名乗った人は、全て偽キリストということです。

そのような者が、終わりの時には大勢現れると言っています。

事実、統一教会文鮮明は、人間として生まれたのにも関わらず、独自のキリスト教の理論を構築し、自分こそ再臨のキリストだと言って憚りませんでしたが、死んで墓に入りました。復活もしませんでした。

さらに、イエスは、「再臨がいつ来るのかについては、あなた方の知るべきことではないし、自分も知らない。」と言っています。「天にいる父なる神だけが知っている。」と、福音書の中には記述されています。

これらのことを総合的に考え合わせて再臨とは何かということを考えてみると、イエスでさえはっきりとは明かせなかった神の奥義を、弟子たちに聖霊が与えられて明かされたとは考えにくい。

ただ、イエス自身が、「私を信じる者は私よりもさらに大きなことを行う」と言っていることを考えると、イエスを信じる弟子達に聖霊という形でイエスが臨んで、イエスが伝えきれなかった神の奥義を伝えなかったとは言い切れない。

パウロが、自分の生きているうちに再臨が起こるだろうと思っていたことは、よく知られている事実ですが、それは起こらなかった。

福音が全世界に伝えられて、それから終わりの時が来るというイエスの言葉を考えれば、単なるパウロの希望的推測であり、聖霊による預言ではなかったことがわかりますが、聖書の全ての言葉が、人間の推測ではないし、全てが聖霊による預言の言葉であるとも言えません。

人間が書いたものは、背後に聖霊の力が働いていたとしても、どうしてもその人の主観が入ります。

それが聖書を複雑な解釈の難しいものにしている原因の一つです。

多くの翻訳本があるのも、解釈を難しくしている原因の一つに挙げられます。

この問題は非常に難しい問題なので、ここではこれ以上深入りをしないことにします。

閑話休題

話を聖書に戻します。

「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい。」

下着を取るものには、上着も与えなさい。」

「一ミリオン行くように強いられたなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」

まるで、泥棒に追い銭のような話です。

しかし、ここでのイエスの真意は、人と争うなということを言っているのではないかと思うのです。

ただ単に人の言いなりになったり。逆に人とむやみに対抗するなということを教えているように思います。

そのために、:「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」という言葉が与えられています。

世の中には、邪悪な狼のような人間もいるので、自分が正しいと思ったことでも通らないことは沢山あります。

だから、人の言いなりにならず、かといっていたずらに対抗心を持ったりもせずに、正しく素直な心を持ちながらも、さまざまな人がいることを考えに入れて、自らの言動に関しては、他人には、出来る限り慎重な配慮をすべきであるという教えだと思います。