イエスの言行研究会 マタイ第5章の7

8月26日、今日は主日です。

一緒に聖餐をいただきましょう。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子達に与えながら言われた。

「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

どうぞ、パンを食して下さい。

また、杯を取り、感謝の祈りを唱えない彼らに渡して言われた。

「みな、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

赤い飲み物を、いただきましょう。

祈り

これで聖餐式は終了です。

続いて聖書の話に入ります。

マタイの5ー43~48までです。

今日のテーマ
【敵を愛しなさい】

エスは、「旧約時代には、同胞や隣人を愛し、敵を憎めと教えられてきたが、自分は、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなた方が天の父の子となるためです。」と言っています。

天の父の子となる(天国に入る)ことは、相当高いハードルを越えなければならないようです。

「私が再び来たとき、果たしてこの世に信仰が見られるだろうか。」という言葉は、まさに現代に至るまでの、人によって作られた教会が、組織づくりと運営にのみに力を注いでいる姿を預言している言葉のようです。

日曜日に教会に来て、礼拝に出席し、献金をしっかり納めていても、家に戻れば世人と同じか、それ以下の生活をしているならば、教会には認められても、神さまに認められるのは難しいようです。

あのモーセとアロンでさえ、冒した罪のために約束の土地に入れなかったのですから。

エスは、「神さまは悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さるからです。」と言っていますが、善人でも悪人でも自然災害からは逃れられません。

特に農作物が大変な被害を受けると、私達の食卓にも直接影響が出ます。

また、私達がしがちである、仲のよい人同士だけでまとまることを批判して、「悪人扱いされていた徴税人でさえ、同じことをしている。」とも言っています。

自分の兄弟にだけ挨拶をしたところで、特に良いことをしたことにはなりません。クリスチャン以外の人々も同じことをしています。

それどころか、牧師同士やクリスチャン同士でさえ、仲良くするどころか悪口を言い合っているのが現実です。

「どうか、これだけはお願いします。教会員同士がいない所で、お互いの悪口を言うことだけはしないで下さい。」

礼拝の終了後に、ある教会の牧師が言った言葉ですが、いかにそのことが日常茶飯時になっているかということが、その事をまだ知らない新来者である私にもにあからさまになってしまいました。

しかし、その事を知っていながら知らん顔して、決められた時間内で説教さえすれば、こと足れりしている牧師よりは、誠実だと言えるかもしれません:。

「神が完全なように、あなた方もそのようになりなさい。」とイエスは言っていますが、それに「はい。」と答えられる人は、おそらくほとんどいないのが実情でしょう。

私だってそうです。完全だなんて人には無理です。

それでも教会に行っている人は、おそろしく真面目で責任感の強い人か、自分の会いたい人が教会内にいる人なのでしょう。

私は、そんな場所には行けそうもありません。そんな争いは社会の中だけで充分で、「キリストによる一致による平和」というスローガンを掲げている教会の中まで同じようなことに晒されているなら、心を休めに行ってたのに、かえって嫌な想いを抱えて、疲れて帰ってくることになります。

そんな教会に行くことを損だと思ってしまう自分は、神さまのためですと言われて、喜んで献金することはできないと思います。

義務感や責任感で出す人や、出していれば天国行きの切符がもらえると思っている人は献金するでしょうが。

エス献金などは要求しませんでした。

ユダヤ教の聖書の勉強も独学です。まぁ、聖霊というすばらしい教師がついていましたから、人に学ぶ必要はなかったわけです。

そこが、厳格なユダヤ教の教育を受けたパウロとは違うところです。

当時のユダヤ教には、神殿税というものがありましたが、それは全て祭司の収入や、建物の修繕費に使われたのです。

現在の献金の使われる用途と同じです。

神殿を建てても、神さまは、「わたしは、人間の立てたものなどには住まない」と、自ら言っているのにも関わらず、人間は神様のためという建前を作って、自分の人からの評判を取るために、自らの功績を作ろうとするのです。

ソロモンの神殿は、ソロモンの功績にはなったでしょうが、自分はアイデアを出しただけで、建築のために動員されたイスラエルの民の負担は相当なものであり、それに対する不満がソロモンに対する反感となり、それがイスラエル王国が南北の国へ分裂した原因の一つになりました。

これからは、いくら宗教法人法により、税金が免除されるとはいえ、牧師の給料や教会の施設の修繕費や新築費用は、すべて信徒に負担がかかってくるのですから、毎日教会堂を使用してはいないのだから、無理して他の教会に対抗するような形で、自前の教会堂を建てる必要などないと思います。

レンタルルームで十分です。そして会費制にして、牧師は生業として社会的な仕事を持っている方がいいでしょう。

退職された方は別ですが、年金で自活できる方が理想的です。

聖書の解説は、奉仕活動です。

最近は、使用していない時間に、教会堂を一般人に貸し出しをして収入を得ている教会も在るようですが、本来の目的外使用ですが、背に腹は変えられないというところでしょうか。

信徒の献金をあてにして、あまりにも立派な教会堂を建てた後に、信徒離れが起こって、貸ホールとしての収入を不足分の返済に当てているところもあります。

あ~ぁ、ですよね。

それでも割り切る必要があるのでしょう。

借金して建てた物は、返済しなければならないのですから。

しかし、宗教行事以外の有料で市民へ貸し出した際の収入は、税金申告の対象ですが、きっちり税金を納めているのでしょうか。

他人事ながら、そんなことまで考えてしまいます。

部外者なので、教会の私有財産について言及する立場にはないのですが、同じクリスチャンとして、果たしてそれはどうなのだろうと考えてしまいます。